No.76

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日

マルコ福音書10章35~45節 「 定められた人 」 吉田 達臣

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 改めて考えてみると、人類が行っている営みで、とても素敵だなと思うのが、サンタクロースのプレゼントです。子どもたちが目を輝かせて、この世界って不思議で、とても素晴らしいところだと感じられます。聖ニコラスが元になっていると言われていますが、聖書でいえば、マタイ6章の善い行いをするときは、人の見ていないところでしなさい、という教えで、それは天に富を積むことになると言います。天に富をつむって、ピンとこない人もいるかもしれませんが、これは信じてやってみることで、初めて感じ取れる感覚です。人に褒めてもらうためではなく、人の見ていないところで人を助けたり、善い行いをすること。隠れて、喜びを与えてあげるということ。やってみると、本当に神さまはいて、天に富を積むことができる。錆びることも、盗まれることもない富です。
 今日の福音書の箇所で、ヤコブとヨハネ、二人は兄弟ですが、この兄弟が進み出て、イエスさまが栄光を受けるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください、と願います。右大臣、左大臣のようなものでしょう。偉くなりたい、そう願った。それを聞いていた他の弟子たちは、腹を立てた、と書かれていますから、同じような思いを持っていたのでしょう。
 今の若い人たちは、余り偉くなりたい、とは思っていないのかもしれません。大きな責任を持ちたくない、そう思っているのかもしれません。私が、子どもの頃、偉くなりたいと思っていたか、まあ、少しは思っていたような気もします。いろんな事が思い通りにできる、そう思っていたかもしれません。でも、今の若い人の感覚の方があっています。偉くなるって、自分の思い通りにできるというより、責任を持たされること、したいことができる立場ではなくて、したくないことも引き受けなければいけない立場です。
 イエスさまは、二人に言います。私が受ける杯を飲むことができるかと。イエスさまは十字架に架けられる直前、ゲッセマネの祈りの中で、出来ればこの杯を取り除けてください、でも、私の願いではなく、御心を行ってください、と祈っています。杯とは、十字架です。二人は、意味が分かっているのかいないのか、あっさりとできます、と答えています。使徒言行録12章を見ると、このヤコブは、殉教しています。ヨハネは、聖書には出てきませんが、伝説では、殉教したという話もありますし、長生きしたという伝説もあります。いずれにせよ、この二人は使徒として、重い責任を負っていきます。

 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

 イエスさまは二人にそう言います。若い頃は、自分のしたいことがありました。今やっていることは、もともと自分のしたかったことではない、そう言って道を変えたこともあります。でも、いつの頃からか、自分がしたい、したくないをほとんど考えなくなってきました。自分がしたい、したくないじゃない、これが自分の役割なんだ、そう思うようになりました。野球をやり始めたときは、多くの人が、エースで4番というポジションに憧れたかもしれません。プロ野球に入るような人は、ほとんどそうでしょう。でもある時点で、きちんと送りバントで送れることが自分の役割。ワンポイントで、きっちり左打者を抑える、それが自分の役割、そう言って自分の役割を人は引き受けていく。
 私たちに与えられた役割は、決して大きなものではないでしょう。殉教なんて、エースで4番の役割です。私たちは、日々神さまに召された小さな役割があります。先日幼稚園の若い先生と聖書の学びをしていて、善きサマリア人は、何で助けたんだろう、という話になったんですけど、手間もかかり、お金も払っている、得になることは何にもないのに、何で助けたんだろう。多分、やらないほうが、後悔する、そう感じたんだろう、という話になりました。ゴミが落ちていることに気付いた。気づかなければ、気にならなかったし、気づいてやらなくても、誰からも咎められたりはしない。でも、気づいて気になった、これも神さまから召されている、小さな小さな役割でしょう。やって誰かに褒められるわけでもない、でも神さまは見ていて、天に富を加えてくれます。誰かがやらなければならない役割、中には汚れ役というか、誰がやってももんくを言われる、という役割だってある。でも、誰かがやらなければ、そう思う。自分がしたいしたくないは、関係なく、ああそろそろ自分の番かな、と思うことがあります。
 究極は、イエスさまです。キリストは、神の身分でありながら、自分を無にして、僕に徹した、十字架の死に至るまで、神さまのみむねに従順だったと言います。私たち自身それがいつもできる、ということではありませんが、引き受けている人を見ると感動をする、一目置く、という心くらいは持っています。したい、したくないは、キリスト者として成熟するために、少し後回しにしましょう。神さまのみむねに気づいたら、引き受けてみましょう。定められた小さな小さな役割を担ってみましょう。神さまだけが、神さまだけは知っていてくれている働きがあります。盗まれることの無い、天に富を積みましょう。聖書の意味で、本当に偉い人に気付いていきましょう。そして、本当の意味で偉くなっていきましょう。