No.77

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日

マルコ福音書10章46~52節 「 主は憐れみ深い 」 吉田 達臣

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 年齢を重ねたせいか、「まあ、しょうがないか」とあきらめといいますか、妥協といいますか、そういうものが早くなっている気がします。若い頃は、絶対何とかしてやる、という思いがあったのに、もちろん若い頃も妥協はしていましたけど、「しょうがないか」という思いが早くなっている気がします。年を重ねると実際にできなくなっていくことが増えていきますから、欠点や課題を克服していくばかりではなく、うまく付き合っていくということも覚えていかなければならないのだともいます。でも、人にはいくつになっても簡単にあきらめてはならない大事なこともあると思います。
 今日の聖書の箇所は、マルコ10章の終わりです。次の11章はエルサレム入城です。いよいよ受難の道に入っていきます。今日の箇所は、マルコの中では、イエスさまの最後の奇跡です。エリコの町は、エルサレムの近くです。エルサレムで行われる過越しの祭りに多くの人が訪れたと思います。イエスさまが、エリコを出てエルサレムに向かわれる。弟子たちも大勢の群衆も一緒です。この後、イエスさまはエルサレムに入られた時、ホサナホサナと言って迎え入れられます。イエスさまが過越しの祭りで新しい王になることへの機運がいよいよ高まる。まだ、エルサレムには入っていませんが、ちょっと異様な雰囲気は出始めていたのかもしれません。盲人であり物乞いであるバルティマイは、その雰囲気を察したのか、誰が来たのかと周りの人に確かめたのかもしれません。ナザレのイエスだと聞くと、バルティマイは叫び始めます。「ダビデの子イエス、私を憐れんでください。」イエスさまが、多くの病気の人を癒したという噂を聞いていたのかもしれません。千載一遇の機会とばかりに、周りに止められても、バルティマイは叫び続けます。イエスさまは立ち止まって、あの男と呼ぶように申し付けます。人々はバルティマイに言います。「安心しなさい、立ちなさい、およびだ」安心しなさい、と訳されていますが、口語訳の聖書では「喜びなさい」と訳されています。そういう意味も含まれています。「喜びなさい、立ちなさい、およびだ」。呼びに行った人もうれしかったのかもしれません。バルティマイは、まだ癒されてはいないのに、呼ばれた時点で躍り上がった、と書かれています。イエスさまのところに行くとイエスさまは、「何をしてほしいのか」と尋ねます。バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたい」そう言います。イエスさまはここでは、触れることもなく、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そう語ると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、と書かれています。
 決して難しい話ではないのですが、私たちはこの話をどう受け止めればよいのだろうと思ってしまいます。私の知っている方でも、目の見えないキリスト者の方もおられます。その人は癒されてはいません。この箇所を、自分に語り掛けられている神さまの言葉として、どのように受けとめればよいのだろうと思ってしまいます。
 今日から私たちは、礼拝をフルで、本来の姿に戻しました。改めて、式文の中には、たくさんの大事な言葉がある。式文の中に、今日の福音書の箇所からとられている部分もあります。エレイソン、憐れんでください、バルティマイの叫び続けた言葉です。私たちは、もういいなれてしまって、あまり感じないかもしれませんが、普段は使わない言葉です。
 藤木正三先生の文章で、「あわれみを乞う」というタイトルの文章があります。

 「憐れんでください」、まことに情けなく、だらしない言葉です。それにもかかわらず、この言葉には人間の誇りが感じられます。もはや自分の力ではどうしようもなくなった人間が、自らの命を絶つのではなく、さりとて動物のようにただただ生きておればよいというのには耐えられず、何とか人間らしく生きていたいというところで発する言葉でも、これがあるからでしょうか。あわれみは、誇りを捨てたときにだけ乞うものではありません。誇りのために乞うものでもあるのです。前者はねだる願いです。後者は信仰の祈りです。

 という文章です。バルティマイは、人間らしく生きたいと願った。自分に誇りを持っていきたいと願った。ずっとそう願い続けていたけど、誇りを持って生きられなかった。バルティマイに教わることは、自分の尊厳を取り戻したい、その願いを諦めなかったことです。私たち、年を重ねると、色んなものを諦めていく。それ自体は悪いことではないでしょう。でも、諦めてはいけないことがある。人間らしく、誇りを持って生きようとすること。自分ではできなくても、憐れみ深い救い主が、私たちを愛し、大事に思ってくださり、その思いで私たちに誇りを与えてくれる。イエスさまからの一方的なあわれみなのに、イエスさまは言ってくださる。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。私たちは、たとえ自分が情けないものであっても、イエスさまに愛されたものとしての、誇りを持って生きましょう。そして、なお進まれるイエスさまに、従って歩みましょう。