No.78

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年10月31日 宗教改革日(赤)

第一日課 エレミヤ書31章31-34 使徒書 ローマ3章19-28  福音書 ヨハネ8章31-34 「 キリスト者の自由 」 粂井 豊

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
アーメン。

 本日は、宗教改革日です。この礼拝堂に宗教改革500周年のバナーが飾ってあります。そのバナーに記されているように、宗教改革は4年前の2017年に500周年を迎えました。皆さんが知っていることを改めて繰り返すことになりますが、宗教改革は、ローマ教皇が統括する、ヨーロッパ地方全域にあった現代のカトリック教会の歩み方に、私たちのルーテル教会の創設者とも言えるマルチン・ルターが問題提議をしたことが発端となりました。
 少し、今日の聖書の言葉に耳を傾けることから脱線しますが、私たちのルーテル教会は、ルター自身が聖書を読む中で与えられた聖書理解の仕方で、聖書を信じて行く群れの教会です。ルターは、ハイデルベルク大学と並んでドイツの中では最も古い大学の一つエファルト大学の、法学部の学生でした。教養課程を終え、専門の法学の勉学に入った矢先の時、突然、落雷に襲われ九死に一生を得る体験をし、その二週間後に、修道院(アウグスティヌス隠修士会)に入り、1年後に修道士となりました。しかし、その修道院生活は苦悩の生活でありました。それは、修道生活が厳しいからの苦しみではありません。魂の苦しみです。ルターは、人一倍、聖書を読み、懺悔をし、祈る修練生活をしたそうです。それにもかかわらず、魂の平安が与えられず、絶望と希望、信頼と不安の中を行き来しつつ、そういう中で、「キリストのみ、恵みのみ、信仰のみ」という福音理解によって生かされることに気づかされたのです。
 当時のカトリック教会はそのような信仰理解に立っていませんでした。、免罪符という、日本でのお守りのような物を発行し、それを購入して持っていれば罪は許されるという歩みをしていました。それに問題を投げかけることとして、1517年の今日の日、10月31日に「95箇条の論題」という質問状をヴィッテンベルグにある城教会の扉の前に張り出したのです。それが、宗教改革という、カトリック教会から分離するプロテスタント教会という新しい教会形成へと発展することになったのです。ルターは落雷に襲われ、突然に修道院入ったように思われますが、それは一つのきっかけであったと思います。14世紀の半ばには、ヨーロッパ全土で、今のコロナと同じような得たいのしれない黒死病とも言われたペストが流行し、多くの人々が犠牲になったと言われています。それだけでなく、中世ヨーロッパにおける貧困は、今の日本の社会の人々には理解できないほどであったそうです。全ての人々が生存そのものを脅かされる貧困の生活の中にありました。人々にとっては、死を避けることではなく、いかに良い死を迎えることができるかが重要な問題であったのです。良い死とは、単に身体的に苦しみの少ない死ということではなく、魂の安らぎを得た死を迎えるということです。そういう時代背景の中で、人々の罪を許し、安らぎの死を迎えられると詠った免罪符なるものが発行されていたのです。
 ルターは落雷に襲われる中で、恐怖にかられて「助けてください。聖アンナさま。私は修道士となります。」と言って修道院に入ったが、後に修道士になる請願を立てたことを後悔したこともあることを語っています。ルターにとっては、魂の平安を与えられて召されていくことが修道院生活の中で求める最大の課題であったのです。それ故に、イエスさまの十字架の贖いによる恵みに心開かされるまでは、苦しみの修練だったのです。そのような修道院生活の中で、キリストの十字架の出来事を通して全ての罪は許され、永遠の命を約束されるという、神への深い信頼への“救いの確信”に導かれたのです。イエスさまの十字架の死による贖いによって全ての罪が許される恵みを知ったルターは、その恵みの喜びを語る書物をたくさん書き残しました。その中の一つに、小さな書物ですが「キリスト者の自由」という書物があります。その書物の冒頭では「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも従属する。」と記しています。
 かなり脱線していましましたが、今日の福音書は、その自由ということがテーマになっている箇所です。イエスさまは、罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。しかし、私の言葉にとどまり、私の弟子であるならば、真理を知り、真理はあなたたちを自由にする、と言われています。そのイエスさまの語る自由を、イエスさまを信じたユダヤ人たちではあったはずですが、理解していなかったのです。理解しなかった彼らであることは、今日の日課の箇所の後の、45節にあるのですが、「 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。」とはっきり示されています。
 彼らは信じたつもりですが、その信じ方は、イエスさまが与えてくださる自由な生き方に導かれていくものではないのです。このような信じ方をした人たちは、このユダヤ人だけではありません。今日の日課の一節前には、多くの人たちがイエスを信じた、とあります。その人々も、弟子たちも、イエスさまの十字架の前でつまずき、信じてどこまでもついて行くと言っていたにもかかわらず、イエスさまを見捨ててしまったのです。人々や弟子たちは、病人や、先週の礼拝の御言葉ですが、盲人の目を開かれるというような奇跡的な業を見て、私にもそのような関わりをしてくださると思うイエスさまを信じていたのです。つまり、自分にとって都合の良い関わりをしてくださるイエスさまを求め信じようとしていたのです。私たちも同じではないでしょうか。
 イエスさまは、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言われました。私たちは、自分が罪の奴隷になっているとは思っていないことが多いのではないでしょうか。
 今日の信徒の手紙を書いたパウロは、今日のローマ信徒への手紙の少し前の節で、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」と言います。その後に、今日の言葉ですが、「すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と語ります。
 十字架というのは、当時の世界を治めていたローマの処刑方法でもありましたが、同時に、神さまにも捨てられる裁きの刑でもありました。イエスさまは、その刑を私たちの身代わりとなってかかってくださったのです。私たちは、イエスさまの十字架の前では、自分の罪を自覚せざるを得ないのです。十字架という刑の前で、罪を犯すものとしての自分の姿を受けとめざるを得ないのです。当時の人々が、自分の期待に応えてくれないイエスさまを「十字架につけろ」と言って抹殺したように、私たちは、私たちの生活の中で、自分の意に沿わない人たちを、邪魔者扱いし、抹殺しようとする心に支配されてしまうのです。現代のいじめの問題は、まさにこの現象ではないでしょうか。いじめの問題を、私たちは他人ごととしておけないのです。私たちの中にも、いじめに流されてしまう、自分中心の心があるのです。律法は、言います。自己中心的な思いの中にあると、高慢、物欲、色欲、嫉妬、怒り、貪欲、怠慢、等々、に囚われ、罪の奴隷となっている心があると。
 ルターは、修道院生活を過ごす中で、この自己の罪を知らされ苦しんだのです。罪を犯さないように修練を重ねれば重ねるほど、神さまの裁きの前に立たざるを得ない自己の罪を知り、悩み苦しんだのです。そのような中で、イエスさまの十字架の死は、神さまの裁きの死だけでなく、同時に、私の身代わりになってくださった贖いであり、恵みの出来事であることを知らされたのです。それが、今日のパウロの言葉です。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
 ルターは、この言葉を通して、“神の義は、正しさを求めて人を裁く義ではなく、神に従おうとする者を導く罪赦される神の義である”という、イエス・キリストを通して与えられた神さまの恵みに心開かされたのです。それ故、神さまの前で裁かれないために、律法を守らねばならいという生き方から解放され、さまざま罪に囚われ起こしてしまった罪も、これから起こしてしまう罪も、全てゆるしてくださる神さまの恵みの中で生きる喜びに捉えられている自由人として、自ら人々に仕えて行く歩み方へとおしだされたのです。
 神さまは言います。イエス・キリストの十字架によって、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」、あなたは、これを信じるか、と今、問いかけておられます。
私たちは、このような言葉を毎日曜日聞いており、良く知っていることです。その私たちに、イエスさまは、「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。と言われました。」私の言葉にとどまるということは、どのようなことでしょうか。それは、イエスさまの贖いに感謝して、イエスと同じ歩みに出て行こうと繰り返し歩み導かれていくことでないでしょうか。

人知を超える平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。 アーメン。