No.79

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年11月7日 全聖徒主日

ヨハネ福音書11章32~44節 「 神の栄光が見られる 」 吉田 達臣

 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 私たちは毎週信仰告白をします。先週は、久しぶりに聖餐式をし、信仰告白は、ニケヤ信条でした。信仰告白は、信仰の勘所、ここはぶれてはいけない、という教えが書かれています。ニケヤ信条は、異端的な考えが教会の中で出てきて、本流はこの考え方です、というのをニケヤ公会議という会議で決め、まとめられたものです。その考え方とは、三位一体論です。もう一つ言えば、キリスト論。キリスト論とは、イエスさまは、真の神であり、真の人だ、という教えです。三位一体論とは、父と子と聖霊なる神は、三つの神がいるのではなく、三つの姿を持った、一つの神がいる、という教えです。神学校でいろんな説明を聞きましたけど、理解はできませんでした。100%神であり、100%人間だって言うんです。分かるわけがない。三つにいまして、一つなる神、どういうこと、と思ってしまいます。この信仰の中心的な教えが、これだけわかりにくいって、キリスト教って大丈夫なのかな、と思ったことがあります。でも不思議と、歴史の荒波の中で、父なる神だけが神で、キリストは人間なんだと、人間的には分かりやすい教えに舵を切ると、不思議とそういう教派は、なぜか歪んでいき、消滅していきます。
 今日の福音書の箇所は、ラザロの生き返りの話です。マルタ、マリア、ラザロという、恐らくイエスさまととても親しかった兄弟がいました。ある時、弟のラザロが危篤になる。姉妹は、人に頼んで、イエスさまに来てもらい、病気を癒してもらおうとします。しかし、イエスさまがこの姉妹のもとに到着したのは、ラザロが死んで、もう四日もたってからでした。姉妹は口々に言います。主よ、あなたがここにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと。マリアの口惜しさと、マリアの悲しさが、イエスさまに伝わるように、イエスさまも憤りを感じ、涙を流したと言います。イエスさまは墓のところまで行き、その石を取り除けるように言います。姉のマルタは、もう匂うからやめようと言いますが、信じるなら神の栄光が見られると言い、石を取り除けさせます。「ラザロ、出てきなさい。」とイエスさまは大声で叫ぶと、蘇ったラザロが出てくる、という話です。
 私が初めて聖書でこの箇所を読んだとき感じたことは、信じられるはずがないと思いでした。死んだ者が生き返る、そんなことがあるはずがない、そう思いました。ところが、ルターという人は、この箇所の説教ではないのですが、復活についての説教で、復活は誰でも容易に信じられる、といいます。それは、私たちがそれ以上の奇跡にあずかっているからだと言います。私たちは、別に奇跡なんて経験したことがない、と思っています。しかし、そのルターが言っている奇跡というのは、この世界が生まれ、命が生まれ、あなたが生まれたことだといいます。何もないところから、世界が生まれ、命が生まれ、あなたが生まれた。
 イエスさまが、神さまなんかではなく、偉大な人間、偉大な教師ならば、私たちはもっと受け入れやすいのかもしれません。でも、そうであれば、私たちは死からの救いは諦めなければならないでしょう。そして、もし、死者をよみがえらせることができる存在がいるとしたら、それはおそらく、最初に命を造られた方です。イエスさまは、今日の箇所の少し前で言います。「わたしは復活であり、命である。」ある牧師が、この言葉は普通ではない、といいます。ふつう、「わたしは復活を与える者であり、命を与えるものである。」というのならば、分からなくもない。でもイエスさまは言います。私は命である。私が命である。命とは、私である。
 ラザロは蘇りましたが、もちろん今も生きているのではなく、やがてもう一度死にました。この出来事は、イエスさまが神から遣わされた方であることを示すための出来事でした。私たちに約束されている命は、この世の命とは違う、新しい命です。神の命です。神の子とされる約束です。私たちというのは、ここにいる私たちばかりではなく、先にこの地上を去った兄弟姉妹にも約束されたものです。
 天国、神の国とはどんなところだろうかと想像することがあります。私たちの見たことの無い知らない世界ですから、具体的なことは言えません。ただ、死への不安がない世界。必死に生き残ろうとするための営みから解放された世界です。食うためとか、暑さ寒さをしのぐためとか、健康のためとか、そういう煩いや営みから解放された世界です。愛に飢えていない世界でもあります。見てもらおう、認めてもらおう、愛されようとしなくても、愛に満たされた世界です。わたしもきっと、もっといい人になっていると思います。
 なぜ、私たちがみ国に召される約束が与えられているのか。それは、私たちが、それにふさわしいものだからではありません。全くそうではありません。それは、神さまが、人の痛みや悲しみを感じ取れる方だからです。限界を抱え、罪を抱えながら生きている人間の痛みや悲しみを感じ取り、共に怒り、共に涙を流してくれる方だからです。憐れみ深い方から与えられた、私たちの恵みを畏れを持ちながら、改めて感謝いたしましょう。