No.80

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日

マルコ福音書13章1~8節 「 産みの苦しみ 」 吉田 達臣

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
 ◆終末の徴
 13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

 今日の福音書の箇所は、小黙示録と呼ばれたりする箇所です。イエスさまと弟子たちは、過越しの祭りのために、イスラエルの首都エルサレムに入っています。そこで、ヘロデ大王によって46年の歳月をかけてようやく建て直されたエルサレムの神殿に来ます。神殿は神さまの住む場所、礼拝の場所です。当時の技術の粋を集めて建てられた建物でしょう。弟子の一人が言う、「先生、ご覧ください、何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう。」するとイエスさまは言います。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」少し分かりにくい言い回しですが、要は、この神殿も崩壊するときが来る、という意味です。
 その後、オリーブ山に行ったとき、最初にイエスさまの弟子になった4人の弟子が秘かに、といいます。秘かに尋ねる、それはいつ起こるのかと。この続きを読んでいくと分かりますが、神殿が崩壊するのがいつか、というより、この神殿が崩壊するときは、世界が終わる時だと感じたのでしょう。世の終わりはいつ来るのか、また、その前兆のようなものはあるのかと尋ねます。
 実際にこのエルサレムの神殿は、イエスさまが十字架にかかってから、約40年後にローマ帝国によって破壊されます。そして、イスラエルという国土はなくなり、ユダヤ人は20世紀まで流浪の民になります。世の終わりは来ませんでしたが、ユダヤ人にとって、衝撃的な出来事だったと思います。
 ディズニーアニメで、インサイドヘッドという映画があります。11歳の女の子で、もともと元気溌剌な子なんですけど、田舎町から都会へ引っ越しして転校する。思春期も相まって、ものすごく心が不安定になってしまう。その女の子の頭の中、インサイドヘッドの話なんです。そこで最後に起こるのは、今まで自分を作ってきた良い経験や良い思い出がいったん全部壊れて、また新しい自分を作り直していくんです。
 私たちも人生の中で、何度か、自分の神殿が崩壊する、という経験をしています。自分が頼りにしていたもの、自分が信頼していたものが揺らぐ。第二次世界大戦後の多くの日本人は、神殿の崩壊を経験したような思いだったでしょう。あるいは、自分はこんな人間だと思っていた。こういう良いところがあって、こういう悪いこともある。でも、そんな自分の自己像が揺らぐことがあります。自分は苦手だと思わされていたけど、この道順で行けば、行けるじゃん、と思うこともあります。でも、それ以上に、自分はそんなに弱くはない、自分はこのくらいはできる、自分はこれには自負がある、そんな思いが崩されていくことがたくさんあります。自分は思っているほど力はなく、思っている以上に弱い。自分の自負は、度々崩されます。十字架の時に逃げた弟子たちも、大きく自分への自負が崩されていきます。私たちは年齢を重ねるにつれて、色んな自負が崩されていきます。
 でも、聖書が教えていることは、自負が崩されることは、全く悪いことではない。辛いことであり、悲しいことであるかもしれないが、決して悪いことではない。聖書はそう教えます。
 椎名麟三というクリスチャンの作家が書いた台本で、「天国への遠征」という戯曲があります。若い男性一人と、若い女性一人、中年の女性が死んで、殺風景な何もないところに来る。みんなそれぞれ背中に重い石を背負っている。男は、純粋という石。若い女性は、愛という石、中年の女性は信仰という石です。悪魔が出てきて、貸したものだから返してほしいという。しかし、この石は自分が一番大事にしていたものだから、渡さないという。でも、ドタバタ劇があって、何をやっても何も起こらないから、やけくそになって背負っていた石を悪魔に返す。すると身が軽くなり、天に昇っていく、という話です。
 自負というのは、自ら負うという字です。実はそれが重荷だったりしている。でも、それがなければ、自分ではなくなると思っています。でも、私たちは、時にそれが打ち砕かれる。それが崩壊していく。この世のものである限り、いずれ壊れていく。神殿が壊れていく。でも、それは、辛く悲しいことではありますが、決して悪いことではありません。あなたは自ら背負うことをやめて、イエスさまに背負ってもらう入り口になります。人の子は戸口まで来ています。
 それは生みの苦しみだと言います。大変だけど、そこにこそ希望がある。その道を通って、あなたは本物の救い主を見つけることができます。その救い主は、お金や地位、権力、力を与えてくれる人ではありません。時に奪う方でさえある。でも、あなたを愛し続け、赦し続け、何度でも救い続けてくれる救い主です。
 私たちは本当の意味でイエスさまに出会うまで、心安らぐことはありません。私たちは、まだどこかで自分を信じている。心の底では頼りなくて、不安に感じながらも、どこかで自分を頼みとしている。そうである限り、その自負が崩壊する経験をするでしょう。でも、心配する必要はありません。それは、産みの苦しみです。希望を持ち、信じて耐えましょう。人の子はもう戸口に来ています。