No.81

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年11月21日 永遠の王キリスト(聖霊降臨後最終主日)

ヨハネ福音書18章33~37節 「 理想と現実の間 」 吉田 達臣

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ルターは宗教改革運動を進める中、ヴォルムスの国会に呼び出され、自分の主張を撤回するように命じられます。多くの人を巻き込んで混乱に陥れ、教会の信頼に傷をつけたからだと言われます。しかし、ルターはみ言葉によって反論されるのでなければ、自分の主張は撤回しないと言います。ルターは、アハト刑という法律の保護から外されるという刑を受けます。例えば誰かがルターを殺しても、その人は殺人罪にはならない、という刑です。すぐに火あぶりにしなかったのは、少し意外でもあります。ルターはその帰り道、何者かに誘拐され、行方が分からなくなります。誰もが、ルターは殺されたと思っていました。しかし、実際には、ルターを守ろうとしたフリードリッヒ選帝侯が、友会を装って、ワルトブルグ城という城にかくまいました。その城で、ルターは聖書をドイツ語訳したり、いくつかの書物を書いています。幽閉されながらも充実した働きをしているようですが、精神的にはかなり抑うつ状態だったとも言われています。悪魔が見えて、インク瓶を投げつけたというエピソードは有名です。でもインク瓶を投げたほかに、もう一つ有名なエピソードがあります。精神的に追い込まれた時、ルターは机に、「私は洗礼を受けている」と刻み付けたそうです。
 今日の箇所は、イエスさまが十字架にかかる直前の箇所です。ユダヤの最高法院は、イエスを死刑にすることを決める。しかし、その当時ユダヤはローマ帝国の属国でした。自分たちで、死刑にする権限がなかったと言います。そこで、ローマ帝国から送られているシリア州一帯を投じする総督ピラトのもとへ連れて来られます。実は、本当にユダヤ人が自分で死刑にする権限がなかったのかどうか、未だに議論が続いています。使徒言行録を読むと、7章のところで、ステファノという人が最高法院に呼び出され、最終的に石を投げられて処刑されています。普段総督ピラトはエルサレムにはおらず、カイサリアにいたと言われています。普段は互いに見て見ないふりをしていたが、過越しの祭りを警戒して、エルサレムに来ていたピラトを無視するわけにいかないと思い、伺いをたてたと考える人もいます。でも、もしかしたら、強引にイエスを死刑にすることの後ろめたさから、無意識のうちにピラトに最後のボタンを押させようとしたのかもしれません。しかし、ここでピラトは追い詰められているように見えます。ピラトはイエスが不思議だったと思います。ピラトはイエスさまを生かすも殺すもできるのに、イエスさまはピラトに対して、媚びるような態度は全く見せない。罪を犯した者の疚しさも見えず、堂々としている。更には、イエスさまは死をも恐れていないように見えます。ピラトは何度も、私はこのお所に罪は見いだせないと告げるが、祭司長たちはこの後も引き下がらず、最後には、ユダヤの祭司長は、私たちの王様は、ローマの皇帝だと叫び、イエスを死罪にしないなら、ピラトは皇帝への裏切り者だと語りだします。ピラトは群衆に訴えかけて釈放しようとするが、群衆も祭司長たちに煽られ、十字架につけよと叫び出します。ピラトは勝手にしろと、イエスさまを十字架刑に変えることをゆるします。
 不思議に、追い込まれているのは、十字架に架けられるイエス様ではなく、ピラトであり、祭司長たちに見えます。人は追い込まれると、自分の弱さ、醜さが出ます。祭司長がイエスさまを死刑にしようとした具体的なきっかけは、ラザロがよみがえり、多くの人がイエスさまを信じたことです。このままいけば、全員イエスさまについて行く、そう思った。嫉妬であり、自分の立場を守るために、邪魔なものを無理やり排除する。私たちにもそのような心があります。追い詰められなければ、そのような顔は見せませんが、追い詰められると、自分でもここまでするのか、と思う意外な自分に出会う。
 ピラトの姿も、私たちにはあります。自分の思いを貫けない。たとえおかしいと思っても、周りに追いつめられると妥協する。十字架に架けろと叫ぶ、会衆の無責任さも、わたっしたちは持っています。人間は強い立場、有利な立場に立つと、醜さ、残酷さが露わになる。
 三者三様の罪がある。現在でも、死刑を執行するスイッチは三つあって、三人が押すそうです。誰もが、自分がやったんじゃない、そう思える余地を作る。
 ただ、言い方の問題かもしれませんが、イエスさまが十字架にかかったのは、祭司長、ピラト、会衆の罪と弱さが合わさって実現したわけではありません。イエスさまは、ずっと前から予告している。渡されて十字架に架けられると。ペトロが、そんなことがあってはいけないといさめても、あなたは神のことを思わず、人の子を思っている、と叱られます。イエスさまは、神さまの計画、自分の計画に従って十字架にかかっていった。追い詰められて人の弱さが出て、十字架にかかったのではなく、イエスさまが追い詰めて、隠れている人間の弱さを露わにしたんです。弟子たちも、自分の弱さが露わになる。
 人間の本当の救いは、失敗しないことでも、弱さが出ないことでもありません。私たちは、いつ自分の弱さ、醜さが露わになるのではないかと、不安を抱えながら生きています。本当の救いがあるとすれば、自分の弱さ、醜さが露わになっても、なお赦され、なお愛されることを信じるときです。イエスさまが十字架で死んだ後、後悔の募る弟子たちに、復活したイエスさまが現れ、なお愛を示されます。後悔の募るユダヤ人に、聖霊を注ぎ、教会を建て、赦しを与える、悔い改めの洗礼を与えていきます。
 私たちは洗礼を受けています。まだ洗礼を受けていない方も、誰もが洗礼に招かれています。