No.82

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年11月28日 待降節第1主日

ルカ福音書21章25~36節 「 喜びを逃すな 」 吉田 達臣

21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 今日から待降節になり、教会の暦が改まりました。この季節は、待降節という名前のほかに、アドベントとも呼ばれます。アドベントの意味は、再臨、イエスさまが世の終わりに再び世に来られる再臨を覚える季節です。ですから、今日の福音書の箇所は、世の終わり、再臨についての記事です。

 太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 最近、日本沈没というドラマをやっています。わたし、見ていないんですけど、世の終わりは、日本が沈没するなんて規模のものではありません。世界が終わるんです。宇宙が終わる。どこかに逃げればよい、という話ではありません。聖書の教えの特徴は、この世のものはすべて被造物であり、いつかは必ず滅びる。創世記の初めに、この世界の始まりが書かれているように、始まったものは、必ず終わると聖書は教えます。しかし、終わりは、新しい始まりであり、世の終わりには、人の子、イエスさまが再臨すると言います。神の国が近づいているのだと教えます。天地は滅びても、私の言葉は決して滅びない、と教えます。天地の滅びなんて、少しスケールが大きすぎて、あまりピンとこない。まあ、自分の人生に世の終わり、宇宙の終わりが重なるというのは、あまり考えにくい。何か、自分の人生には直接関係ないことのように思えます。
 しかし、イエスさまは教えます。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 私たちがこの世の終わりに立ち会う可能性は少ないと思います。しかし、私たちは、この世のものである限り、この世の命は必ず終わります。それも、聖書が教えているように、不意に訪れることもあります。死が訪れたら、終わりの日まで眠りにつくのかもしれませんが、自意識としては、死んだ直後に、イエスさまと顔を合わせることになるでしょう。ある意味、再臨のイエスさまに立ち会います。ある修道院では、メメントモリ、と挨拶すると言います。死を覚えて、という意味です。いつも目を覚ましていなさい、という言葉の意味は、今日死ぬことになり、今日イエスさまと顔を合わせる日になるかもしれない、ということを覚えておかなければならないということです。
ある牧師の説教を読んでいて、ハッとさせられました。私たちは油断すると絶望する、といいます。キルケゴールの本で、「死に至る病」という本がありますが、死に至る病とは、絶望だと書かれています。この絶望が、第二の死、滅びをもたらすと言います。今日の箇所で、イエスさまが繰り返し教えているのは、世の終わりが来ても、イエスさまの言葉は残り、人の子が来られ、神の国は近づいている、ということです。絶望するな、ということです。
 私たちは、イエス様さの再臨。イエスさまと顔を合わせる、ということ考えると、裁かれる、ということを第一に考えてしまいます。いつ終わりの日が来て、再臨のイエスさまに裁かれるか分からない、いつも目を覚まして、悪いことをしないでおこう、そんな風に考えてしまいます。でも、そういうことではないと、その牧師は語ります。
 ルターの言葉で、「大胆に罪を犯せ、しかし、大胆に福音を信じよ」というのがあります。最初聞いた時、勘違いをして、罪の赦しの福音を信じているから、大胆に罪を犯していこう、という意味かと思いましたけど、違います。これが神の御心だと思うが、本当にそうか確信が持てず、二の足を踏み、何も出来ない者に対して、福音を信じて、やってみなさい、もし間違いだと気づいたら、悔い改めればいい、そういう意味です。御心にかなうことをしようと思いながら、迷っているものに対する、後押しの言葉です。
 一般的に言われることですが、やった後悔は、日に日に小さくなると言います。しかし、やらなかった後悔は、日に日に大きくなると言います。いつ終わりの日が来るか分からないものです、いつ死ぬか分からないものです。生きている間に、神さまに喜ばれ、人に喜ばれることをやっていこうという話です。裁きを恐れて何もするな、という話ではなく、いつ終わりの日が来ても、後悔しないように、イエスさまに喜ばれることを今できる分しておこうという意味です。失敗に関して、罪に関しては、大胆に福音を信じなさい。聖書の教えは、パウロ書簡も含め、イエスさまの再臨は、喜びと栄光の出来事です。タラントを地下に埋めず、あなたは小さなことに忠実だった、一緒に喜んでくれ、そう言ってもらえる機会です。たとえ明日終わりの日が来ても、今日リンゴの木を植え、自分のやれることをやっていきましょう。