No.85

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年12月19日 主の降誕

ルカ福音書1章39~55節 「 喜び 」 吉田 達臣

 1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも
         目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
         わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、
         わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 クリスマスおめでとうございます。
 今日の福音書は、マリアの受胎告知の直後の話です。この時マリアは、10代半ばであったと言われています。婚約者もいる中で、神の子を身ごもることが天使に告げられる。マリアは戸惑いながらも、その役割を受け入れていきます。ただ、マリヤは婚約中に婚約者ではない方の子どもを身ごもることになります。自分に起きている出来事をだれが理解してくれるだろう、この時どう思ったかもしれません。ただ、唯一理解してもらえる人がいる。天使のお告げの中で、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」そう語られました。
 この親類のエリザベトなら、自分のことを分かってくれる。マリアは、エリザベトのところに走っていったと書かれています。エリザベトは、すぐに理解し、喜んでくれる。
 私たちは、僅かな人しか経験しない、稀な経験をすることがあります。自分の気持ちをなかなか理解してもらえない、そんな立場になることがあります。そんな時、似た経験を持っていて、自分のことを理解してくれる、そんな存在は得難いものです。マリアにとってエリザベトはそういう存在です。聖書が教えてくれることの一つは、あなたが稀な経験をしたなら、あなたこそが、似たような経験をした人の理解者になってあげられる、ということです。解決してあげられなくてもいい。分かってもらえることがあれほど嬉しいならば、分かってあげられることは大きな奉仕の機会です。
 その後マリアの賛歌が書かれています。マリアの戸惑いは続いたと思いますが、それでもマリアの魂は喜んだと言います。自分のあれこれ頭の中で考える思いとは裏腹に、魂は喜んだと言います。なぜ喜んだのか、それは神さまが自分のようなものに目をとめてくれたからだと言います。何でもない、こんな自分を用いてくれたからだと言います。牧師になりたての頃、幼稚園と関わるようになり、子どもはもともと好きでしたが、保育の学びも訓練も受けていない自分に何ができるだろうかと思いました。でも、幼稚園に行ってみると子どもによく言われました。「先生、見て」って。縄跳びが飛べたところ、自分で折った折り紙、買ってもらった缶バッヂ。見る事ならできる。人は見てもらえるだけで、こんなに喜んでくれるのかと思いました。神さまは、見ていてくれる方です。あなたの小さな技を、隠れたところでする小さな技を見ていてくれる方です。そしてあなたに目をとめ、用いてくれる方です。
 最近、精神科医のフランクル、という人の本を読みました。アウシュビッツの収容所で95%の人は、ガス室に送られて処刑されますが、僅かな人は捕虜として、強制労働させられる。そこで3年間生き抜いて、終戦を迎え解放された人です。「夜と霧」という本が有名なのですが、私が最近読んだのは、「それでも人生にイエスという」という本と、「人生の意味と神」という本です。読んですぐ分かるという本でもないのですが、少し分かったことは、生きる意味とか、幸福というのは、追いかけてつかむものではなく、いつも結果として与えられるものだということです。幸福になりたければ、生きる意味を見つけたければ、それを直接追いかけてはいけないと言います。一番良いのは、愛せるもの、好きなもの、没頭できるものを見つけることだと言います。本の中で、聖書の言葉も直接引用されていますが、自分の命を得よう得ようと思うものは、かえって命を失う。それよりも、神さまのため、人のために仕えなさい。その時結果として、幸福とか、生きる意味が与えられると。自ら愛せるものが見つからないなら、神さまに求められている働きを、尋ね求めることです。
 マリアの喜びは、神さまに用いられたということです。自分が生まれたことの意味、自分が生きていることの意味をこれだけはっきり与えられた者は、たとえ苦労の多い人生でも、幸いである。意味のない苦労ほど苦痛なものはありません。意味のない時間を過ごす、たまには息抜きとして、そんな時間がほしいと思います。でも、それがずっと続くのは空しい。不思議と人は、意味のある苦労ならば、進んでやります。
 喜びは直接追いかけてはいけません。自分の喜びだけを求めるとそれはやがて空しいものになり、かえって喜びを失います。神さまに仕え、人に仕えることです。神さまに喜ばれ、人に喜ばれることです。その時喜びは必ず、後から追いかけて与えられます。
 人のことを見ていてあげてください。人のことを理解しようとしてあげてください。人の働きを喜んであげてください。人を応援してあげてください。人のために祈ってあげてください。これらは全部神さまに用いられた働きです。あなたに生きる意味を与えてくれる業です。仕えるものに、神さまは生きる喜びを与えてくださいます。