No.86

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2021年12月26日 降誕節第一主日

ルカ福音書2章41~52節 「 神さまの意志 」 吉田 達臣

2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 今日の福音書は、ルカにだけ記されている、少年時代のイエスさまの話です。生まれたとき、生まれて間もなくのイエスさまは描かれますが、間が飛んで30歳の頃の公生涯に福音書の話は飛びます。ただ、例外的に、ルカにだけ、12歳の頃のイエスさまの姿が描かれます。
 ナザレで暮らすイエスさまの両親は、100キロほど離れたエルサレムで行われる過越しの祭りに行っていたと言います。もちろん祭に観光に行ったわけではなく、律法に従って、礼拝に行ったのです。当時イスラエルでは、13歳で成人し、一人前の大人として、律法に従う義務を持つものになったそうです。それまでもイエスさまが過越しの祭りに同行していたかどうかは分かりませんが、来年から律法の義務を負うものとして、12歳に過越しの祭りに生き始めるということは、よくあったそうです。祭の期間が終わり、ナザレに変える。ナザレからの神殿参りは、一家族で動くのではなく、親類や近所の人と共に移動したようです。マリヤとヨセフは、この一行の中にいるものだと思っていたイエスが、どうやらいないらしいということに気付きます。二人は今来た道を、イエスさまを探しながら引き返していきます。すると神殿の境内にイエスさまを見つけます。イエスさまは、学者たちから、聖書や律法を教わっています。少し有名な絵があって、12歳のイエスさまが、律法学者たちに教えているという絵があり、そんな記憶で残っている人がいるかもしれません。でも、ここでイエスさまは座っている。座っているというのは、教わっている人の姿勢だと言われています。イエスさまは教わっている。その姿を神殿の境内で見つけます。イエスさまは、帰路に一歩も踏み出していなかった。それを見たマリアは驚き、イエスさまに言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も、心配して探していたのです。」するとイエスさまはこう答えます。

 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 この箇所直訳すると、私が父の、ここでいう父は父なる神のことですが、父なる神の事柄の中にいるべきだということを知らないのですか。家、という言葉は入っていません。父なる神の働きの中にいるべきだ、と訳している人もいます。いずれにしても、イエスさまは親に向かって、自分の意志を示した。結局、イエスさまは、両親とともにナザレに戻り、両親に仕えたと書かれています。
 とても素直だった子供が、親の意志に背き始める。親はショックだったりします。でも、自分の意志を持ち始める、一つの大切な階段です。親と子供とは別人格である、そのことを改めて突き付けられる時です。
 ただ、この話は、思春期の少年が、成長の一段階として、自分の意志を示し始めた、というだけの話ではありません。それは、これがイエスさまだからです。まだ少年であるが、私たちの救い主であるイエスさまです。私たちが忘れてはならないことの一つは、神さまは意志を持っておられるということです。救い主は、意志を持っておられる。こうすれば、必ずこうしてくれる。ああやれば、必ずこうなる、という存在ではありません。神さまなら、こうすべきだとか、救い主ならばこうすべきだとか、言うのは勝手かもしれません。でも、どうされるかは、神さまは自分の意志で決められます。これだけの条件を満たせば、必ずこうしてくれる、というわけではありません。100回祈ったら、必ずそうなるということではありません。人との話し合いで、きちんと願いや思いを伝えることは大切です。でも、どうなるかは、相手の意志によって決まります。それと同様に、祈ることは大切です。でも、それをどうされるかは、神さまの意志によります。
 神さまは、自らの意志で、この世に救い主を送りました。この世界を愛されたからです。神さまは、あなたに救いの約束を与えられます。あなたが何らかの条件を満たしたからではありません。神さまが、あなたを愛したからだと聖書は教えます。神さまが憐れみ深いからだと教えます。私たちの良識では、合わないことを、神さまの意志によってなさった。それがあなたを救うという約束です。自分が条件を満たしたんだとか、手続きをしたんだなどと思わないほうがいい。神さまの特別な憐みによって、あなたは救われている。そのことをあらためて覚えて、感謝しましょう。