No.87

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年1月2日 主の顕現

マタイ福音書2章1~12節 「 動き出す 」 吉田 達臣

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 教会の暦では、待降節に入った時点で、年は改まっていますが、太陽暦でも年が改まりました。昨日は元旦礼拝を行いました。実は、教会だよりの1月号にも書いたのですが、年に一度しか歌わないのですが、わりと多くの人に愛されている讃美歌で、49番の「新しい年を迎えて」という讃美歌があります。その2番の歌詞が、「過ぎ去った日々の悲しみ、様々な憂いはすべて、キリストにゆだねまつって、み恵みがあふれるような、生き方を今年はしよう」という歌詞です。アーメン、という思いです。今年はぜひ、み恵みがあふれるような一年にしたいと思います。
 今日は主の顕現、イエスさまが世に現れていく姿を覚える主日です。この主日は、いわゆる三人の博士の話です。正確に言えば、占星術の学者です。占星術、星占い、星占い師です。ただ、最近知ったことなのですが、私たちのイメージする星占い師とはずいぶんイメージが違うものらしいのです。占いなどと言うと運勢とか、何歳くらいで結婚するとか、そういう類いのもの、まじないや非科学的なもののようなイメージがありますが、そうではないようです。先日、世界史の哲学という本を読んでいて、その近世編、近世というのは近代と中世の中間、神学的には、宗教改革時代ですが、前科学、科学革命、科学が生まれるその前身になるものとして、星占いと錬金術、新プラトン哲学があげられています。中世までほとんどの人が、天の世界は神の世界、地の世界は人の世界、それが完全に別々の世界だと考えられていました。天の世界、神の世界は人間には計り知れないものだと考えられていました。ところが天の世界と地の世界は連動しており、天の世界、計り知れない世界を僅かながら読み解き、地の世界で起きつつあることを読み解こうとしたのが、占星術の学者という存在だったようです。この博士たちを王のように描かれることがありますが、王というより、天と地を橋渡しする祭司に近い存在だったかもしれません。東の国の占星術の学者、祭司が天の動きを読み解き、ユダヤの国で大きな出来事が起こっていることを読み解く。恐らく偉大な存在が生まれた、恐らく新しい王が生まれた、そのことを読み取り、ユダヤの国まで行きます。そして、首都のエルサレムに行き、そこで新しい王につながる情報を探し回ります。その噂が時の王様、ヘロデ王のもとに届く。その時自分に子どもが生まれていたなら、その子が後の偉大な王になるのですが、その時ヘロデ王に子どもは生まれていません。その新しい王は、自分の王座を奪う存在ということになります。ヘロデは聖書の学者たちに、偉大な王が生まれる場所を調べさせ、それがベツレヘムとわかると、この東の国の学者たちを呼び寄せ、ベツレヘムを探させ、分かったら知らせるように申し付けます。拝みに行きたいからといいますが、殺そうとしていたわけです。東の国の学者たちは、ベツレヘムまではいきますが、そこから先どう探したらよいか分からない。すると、東の国で見つけた星が動き出し、幼子のいる場所で止まったと言います。学者たちは喜びにあふれたと書かれています。そして、イエスさまに会うことができ、自分の宝をささげます。
 この箇所で、ルターは、こう言います。人間の知恵と見識で、博士たちはユダヤのエルサレムまでたどり着いた。聖書の教えで、ベツレヘムまでたどり着いた。その先は、その人だけに与えられる、独自の神さまの導きで、救い主にたどり着くことができた。私たちが信仰にたどり着く道によく似ている。そして、私たちが新しい恵みにたどり着くときによく似ている。自分の興味で動き出す。でも行き詰まる。聖書の教えで深められる。更には、独自の不思議な導きによって、スタートしたころには思いもつかなかった、思いがけない喜びの場所にたどり着く。人生には、そのようなことが起こります。振り返って、改めて思わされることは、博士たちが、星を見て動き始めたこと。動き出したことです。そのきっかけになる特別に輝く星を与えたのも神さまです。でも、やはり、博士が動き出したことは、私たちの印象に残ります。それは、動き出さない自分がいるからです。神さまは、すでに私たちに、興味をそそるもの、動き出しなさい、というきっかけは既に与えられているかもしれません。でも、心惹かれながらも、気になりながらも、なかなか動き出していない自分がいます。きっとこんなものだろうと、たかをくくってしまっているのかもしれません。でも、その先は思いもかけない、不思議な導きがあり、思いを超えた大きな喜びがあるかもしれません。
 今年こそは、み恵みがあふれるような一年になるために、神さまにささげる宝を携えて、動き出しましょう。