No.88

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年1月16日 顕現後第2主日

ヨハネ福音書2章1~12節 「 最初の奇跡 」 吉田 達臣

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

 いただいた冬休みに、カルバンの予定説についての本を読んだり、考えていました。ルターは100%神の恵みのみ、と言いました。救いは、人間の行為次第ではない、という意味です。というより、人間の行いは、あてにならないということです。これを徹底すると予定説になります。人間のふるまいに関係なく、救いが決まっているなら、どうふるまおうと、救われる人とそうでない人は、最初から決まっているということです。ただ、ここで肝心なことは、人間は神さまの予定を知らないということです。人生の運命は決まっているのだろうか、もしかしたらあらかじめ決まっているかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、私たちはそれを知らないから、今を諦めずに生きるしかない。私たちは時々思う。何をやっても変わらない。どうしようもないことがある。
 今日の福音書の箇所は、カナの婚礼の話です。説教題にもしましたが、この福音書の中で、イエスさまがあらわした最初の奇跡、最初のしるしです。
 イエスさまが婚礼に招かれる。母のマリヤも招かれているので、家族ぐるみの深い知り合いだったかもしれません。当時結婚式は、一週間近く祝われていたと言います。昔の人は宴会好きか、という思いもわきますが、そうともいえないようで。色々な本を読んでいくと、結婚式は、普通の人が生涯で一番のお祝いをする出来事、本によっては、一番というより、生涯で一度だけの、大宴会と書く人もいます。ですから、途中でお酒がなくなったというのは、まあ、たまにはそういうときもある、という話ではなく、生涯で一番のイベント、もしかしたら、生涯で一度だけのお祝いの中での、残念な思い出になる出来事だったかもしれません。それに気づいた母マリアは、イエスさまにお酒がなくなった状況を伝えます。それまでの付き合いの中で、イエスさまには、何とかできる力を持っていると感じていたのかもしれません。しかし、イエスさまは、私の時は来ていない、と言っていったん断ります。しかし、母マリアは、深い付き合いがあったかもしれない、その家族の召し使いに、イエスさまが何か命じたら、それを聞くように申し付けます。するとイエスさまは、召し使いに水ガメに水を満たすように命じます。二ないし、三メトレテスの水がめが六つあったと言います。総量は、680リットルといわれます。そこに水を満たすことは大変な作業です。マリアの一言がなければ、やらなかったかもしれない、と思います。しかし、召し使いは水を満たし、それがおいしいぶどう酒に変わったと言います。
 これは、私たちの祈りに似ています。私たちは、何かを願い、何かを祈ります。それは自分のための時もあれば、困難を抱えた人を目にした時かもしれない。でも、祈った途端たちどころに解決する、ということはほとんどありません。そして、ここで教わることは、呪文やおまじないのように、祈れば後はお任せ、ということではなく、祈りながらも時を待ち、イエスさまに命じられたことを自分も果たす用意をしておくということです。
 可能性という言葉を使うとき、私たちはいつも同じ意味で使うわけではありません。不可能ではないけど、という意味で、まあ無理だけど、可能性としてはなくはない。そんな意味で使われてきたのが、意味が変わっていくときがあります。
 先日テレビを見ていたら、アメリカでも、日本でも、野球で二刀流に挑戦するプロ野球選手が出てきたと言います。大谷翔平が、メジャーリーグで、投手としても打者としても実績を残しました。プロで二刀流、メジャーで二刀流。以前は、不可能ではないけど、まあ無理だろうと誰もが思っていました。でも、一人突破する人が出ると、次に続く人が出てくる。フィギュアスケートで4回転半、いや無理だろうと思われていても、一人成功すると、それに続く人が出てくる。100メートル10秒切る。1960年代までは、殆ど無理だと思われていましたが、一人破ると、それに続く人が出てきます。可能性の意味が、殆ど無理から、もっと積極的な意味の可能性になっていきます。
 イエスさまの最初の奇跡。それは大きな奇跡ではないかもしれません。でも、悲観していた状況が、思いもかけず道が開かれていく。弟子たちは、イエスさまに新しい可能性を感じ、信じていきます。
 祈り求めなくても、マリアが求めなくても、時が来たらイエスさまは助けたのかもしれません。僕たちが水をくまなくても、違った方法でイエスさまは、葡萄酒を用意したのかもしれません。でも、それは分かりません。だから私たちは、イエスさまに祈りたいと思います。自分の予想では、悲観的にしか思えない状況でも、祈ってください。たとえ自分の願うようなタイミングで、祈りが叶わなかったとしても、祈り続けてください。そして神さまに命じられたならば、たとえそれが大変な事であっても、従う心づもりをしたいと思います。
 あなたには救い主が与えられました。この世界には、私たちの知らない可能性が眠っている。今の私には想像できない可能性が眠っています。イエスさまを信じ、イエスさまに祈り、イエスさまに従っていきましょう。