No.103

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年5月1日 復活節第三主日

ヨハネ福音書21章1~19節 「 豊かな人生 」 吉田 達臣

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 時々思うことがあります。人生にはなんで、こんなに大変なことがあるんだろうと。一難去って、また一難、次々と大変なことが起こります。私たちが神さまに対して、切実に問う問題です。それに対して、キリスト教の教えが、全てすっきり納得できるような答えを出せるかというと、それを教える牧師の力のせいもあって、すっきりさせることはできません。でも、今日の日課は、一つのことを教えてくれると思います。
 エルサレムの一室で、復活したイエスさまと出会って弟子たちは、やがて教会をつくっていき、今に至るまで、全世界でその信仰が続いていることを私たちはよく知っています。弟子たちは、ティベリアス湖、つまりガリラヤ湖に来ています。弟子たちの故郷であり、イエスさまが宣教を始めていった場所です。使徒たちもここから宣教を始めていったのかもしれません。イエスさまがおられたころ、支えてくれた人たちもいたところです。そのガリラヤ湖で、ペトロは漁に出る、と言い始めます。漁師じゃなかった他の弟子たちも手伝うと言います。聖書にははっきりとは書かれていませんが、多くの神学者が、宣教の初めなかなか思うようにはいかなかったのかもしれない。自分の食い扶持くらいは、自分で用意しよう、そんな思いだったのかもしれません。ところが、その夜は一匹も魚が捕れなかったと言います。弱り目に祟り目です。何をやってもうまくいかない。すると岸から、声をかける人がいる。イエスさまなのですが、弟子たちには分からない姿をしていたようです。そのイエスさまから食べるものはあるか、と聞かれると、ないと弟子たちは答える。すると、イエスさまは船の右側に網を打つように言います。その通りにすると、魚が大量にとれたと言います。これは、ペトロが弟子になった時に起こった出来事とよく似ている。弟子たちは、姿は隠しているが、あれはイエスさまだと気づきます。弟子たちは駆け寄り、炭火を起こし、パンを焼いてくれていたイエスさまと一緒に食事をとります。イエスさまがパンとさなかを焼いて、与えてくれたと言います。いくつもの思い出と重なります。もうお互いに気付き合っています。
 私たちは、生きている中で困難には出会いたくない。全てが全部うまくいってほしいと、心から願っています。でも、振り返ると、困難の中で、色々な人に助けてもらいました。色々な人に励ましてもらった。支えてもらったり、慰めてもらったり、祈ってもらえたりしました。困難がなければ、出会えなかった仲間もいるかもしれません。それは大事な思い出です。全部うまくいっていれば、その喜びは味わえなかった。ずっとうまくいっていれば、自分一人の力で、生きているような気になったかもしれません。順風満帆な人生より、躓きながらも、助けられ、慰められ、励まされる人生の方が、豊かな人生に思えます。
 イエスさまはその後ペトロに尋ねます。「他の人より私を愛しているか」と。愛は比較するものだろうかと思わされます。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。この問答が、三度繰り返されていますが、私たちは連想します。ペトロが十字架で、三度裏切りの言葉を吐いたことを。ペトロは思っています。イエスさま、私のことは、私自身よりも、あなたの方がご存知です。だから、ペトロが他の弟子よりも、イエスさまのことを愛していることは、ペトロも感じているし、イエスさまも感じていた。ペトロが他の弟子よりも、イエスさまを愛していたのは、ペトロの愛する心が多き方からではありません。ペトロが誰よりも赦されたからです。借金を帳消しにしてもらったとき、額の多い人と少ない人、どっちが喜ぶか。イエスさまがそう尋ねたことがあります。自慢するような話ではありません。他の人より多額の借金を帳消しにしてもらったから、他の人よりもよりはっきりと裏切り、それでもなお赦され、それでもなお愛され、苦しい時にまた助けられた、そんなペトロだからこそ、イエスさまに心から感謝し、心から愛した。イエスさまは三度ペトロに、私の羊を飼うように命じます。
 イエスさまは、姿を隠して、弟子たちを支え続けました。もちろん、すべての問題を解決してくれた、というわけではありません。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂で、心が折れそうになった時、暖かい食卓を整えて、もう一度歩み出す力を与えてくれました。口には出さずとも、これはイエスさまの支えだと、弟子たちは気づいたと言います。
 私たち、人生の中で困難があります。でもそのたびに、不思議な支え、不思議な助け、不思議な慰めが心折れそうになる時、与えられたことがあります。たまたま、幸運が続いたのでしょうか。
 それがたまたまではないと信じられた時、その背後に神さまの支えを感じることができたとき、あなたがこの先、困難に出会っても、不思議な支えがあることを信じることができます。助けられたものほど、神さまに感謝すること、イエスさまを愛することができます。困難はあっても、豊かな人生を送っていきましょう。