No.107

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年5月29日 復活節第7主日礼拝

ヨハネ福音書17章20~26節 「 神の子イエスの祈り 」 粂井 豊

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。 17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(一コリ1:3)
今日の福音書の日課は、イエスさまが十字架につけられる前日に、父なる神さまに祈られたその内容が詳細に語られている箇所です。イエスさまの祈りは、17章全部にわたっていますが、大きく分けると前半の祈りと後半の祈りとに分けることができます。前半、後半のそれぞれの内容を一言で言いますと、父なる神さまに、イエスさまを信じてついてきた弟子たちのことを守ってくださるように願っている祈りと、後半が今日の日課の箇所で、弟子たちを通してイエスさまを信じる者となった人々のための祈りとなっています。20節の言葉は、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」という言葉で始まっています。この彼らとは、弟子たちのことであり、その弟子たちの言葉によってイエスさまを信じるようになる人々のためにも、イエスさまは父なる神さまに願い祈っておられるというのです。とても大事な言葉だと思います。弟子たちの言葉によってイエスさまを信じる人々とは、当時の時代の人々だけのことでしょうか。そうでありません。聖書の言葉は、弟子たちを通して語り伝えれてきた書物ですから、その聖書を読み、イエスさまを神の子と信じる全ての人々のためにイエスさまは父なる神さまに願い祈っているのです。つまり、今の時代のイエスさまを信じる私のためにも願い祈ってくださっていると言うのです。そのイエスさまの願う祈りは、私たちが、神さまと一つになるようにということだと言っています。では、神さまと一つになると言うことは、どういうことでしょうか。ルーテル「聖書日課」を読む会が発行している今日の箇所では、一つになることを夫婦のたとえで説明をしています。一見分かったような気がしますが、そのような表現では、私には、もう一つしっくりしませんでした。そこで、私なりの理解の表現で言いかえれば、神さまの愛に包まれて生きる、または、神さまの愛と共に歩むというようなことと考えます。23節では、私たちが、イエスさまと神さまと共に一つになることは、「神さまが、イエスさまを愛しておられたように、私たちをも愛しておられたことを、世が知るようになることだから」、と神さまの愛を語っています。イエスさまと出会い、イエスさまのことを世界中に知らしめた伝道者パウロは、コリントの手紙の13章で、こう述べています。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と言います。もちろん、この愛は、私たちが人を愛するような愛ではありません。ご自身を罵倒し、さげすみ十字架につけろと叫んで十字架につけるように訴えた人々や、自分を十字架に直接つけた祭司長や、律法学者をも含む、全ての人たちのために、十字架につけられている苦しみの中で「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と叫ぶ、イエスさまによって示されている神さま愛です。私たちは、どんなにやさしく、親切に人に関わる愛の行動をとっていても、私たちの愛は、イエスさまが十字架上で父なる神に人々の赦しを願う叫ぶ愛とは違っています。私たちの愛には、問題があります。限界があります。愛のある関わりをすればするほど、それに対する見返りを望みます。徹底してつくしきることはできません。すぐに、私はこんなにあなたのことを思い、あなたのために尽くしてあげているのに、という思いに囚われます。悲しくなるほどに自分中心です。しかも、時に、その自分中心に歩んでいることすら見失い、自分が出来てなかったことは平気でエックスキューズをしながら、他人の問題ばかりをせめたててしまいます。イエスさまはそんな私たちのために祈り、愛であられる神さまと一つとなって、神さまの愛に包まれた歩みに導かれるように、神さまに願っておられるのです。このところが最も大切なことです。私たちが、私たちの力や祈りで、神さまと一つとなり、神さまの愛に導かれた歩みをする、ということではありません。神さまが私たちを神さまと一つにしてくださり、神さまが私たちを神さまの愛で包み込んでくださるようにイエスさまは祈ってくださっているのです。その祈りをしながら、イエスさまは、人々の罪の身代わりとなる十字架につけられ、その贖いによって、私たちは、もはや、どこまでも赦す愛で包みこんでくださっていると言うのです。それが、弟子たちを通して語り伝えられている福音の言葉です。今日も自分のことは棚に上げて、人の問題ばかり心奪われてしまう私たちに、イエスさまの十字架の贖いによって、神さまが私たちを神さまと一つにしてくださり、神さまの愛に導かれている言葉が響くのです。

人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守られるように。(フィリピ4:7)  アーメン。