No.110

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年6月19日 聖霊降臨後第2主日

ルカ福音書8章26~39節 「 イエスさまがいれば 」 吉田達臣

8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

 今日から聖霊降臨節に入り、主日のテーマというより、福音書を順に読んでいく季節になります。今日の出来事の場所は、実ははっきりとはしていません。ゲラサ人の地方と書かれていますが、マタイの並行箇所では、ガダラ人の地方と書かれています。それがどちらなのかというのは、それほど大きな問題ではありません。ただ、ほぼ確実に言えることは、異邦人の町だということです。この箇所には、豚や豚飼いが出てきますが、ユダヤ人は豚を食べないので、豚飼いのいる町であれば、異邦人の町です。ガリラヤ湖の対岸といより、そこから更に離れた場所です。
 そこでイエスさまは、墓に暮らし、裸で生活し、鎖をつけられても引きちぎる悪霊に取りつかれた人と出会います。正直、悪霊とか、その悪霊と対話したとか、それが豚に乗り移って湖に落ちて死んだ、などという話を聞くと、現実離れといいますか、現代離れした話に聞こえます。悪霊というより、多重人格者か、統合失調症の人だろうかという思いを持ちます。
 しかし、一週間この話に向き合ってみると、この話は決して私たちから遠い話ではありません。私たち人間は、不合理な行動をしばしばとります。自分の心でありながら、自分では抑えられない衝動に駆られることがあります。怒りに駆られたり、不安に捕らわれたり、嫉妬に狂ったり、自暴自棄になって、もうどうなってもいいと思い、全てをめちゃくちゃにしてしまいたいと思うこともあります。そして、この箇所の顛末から考えれば、死んでしまいたいと思うことだってあります。自分の思いでありながら、自分でコントロールできなくなる衝動が起こります。良くないとは分かっていても、自分で自分を抑えられなくなることがあります。あるいは、逆に、そんな衝動を必死で抑えている毎日といってもいいかもしれません。
 何か悲しいことが起こり、自暴自棄になると、人に八つ当たりをしたり、自傷的な、自分自身を痛めつけることもします。人が心配してくれても、「かまわないでくれ」と、この悪霊のように言うこともあります。そんな時にこそ、教会に行くべきだと、頭の中では思いながら、こんな状態では教会に行けない、とも思う。私たちの心は一様ではなく、自分の中に矛盾した思いを複数抱え込んだりもします。程度の違いはあると思いますが、多くの人が似たような経験をしています。
 ここでイエスさまは何をされたか。ある牧師が、この箇所で、ここでイエスさまは何もしていないと語っていました。イエスさまは、そこにいてくださるだけで、悪霊の方が自ら退散していったと言います。イエスさまは、嵐の湖を越えて、この異邦人の町まで来てくださった。最終的には、この地域の人に、出ていってくれと言われ、あっさりと素直にすぐに出ていきますから、イエスさまは、実質この人一人助けるために、ここまで来たようです。イエスさまが来てくれたおかげで、ただ来てくれただけで、すべてが解決していったようです。
 私たちが、どんな衝動に駆られても、イエス様のことを思い返すことができれば、イエスさまが共にいることを思い出すことができれば、本来の自分に戻れるのかもしれません。神さまに祈ることを思い出すことができれば、あとは必ず本来の自分に戻っていくことができます。ローマ8章には、祈ることすらできない時にも、うめきの中に、その息の中に聖霊がいて、その聖霊が執り成して祈ってくれる、代わりに祈ってくれると書かれています。うめく事さえできれば、イエスさまが悪い思いを取り去ってくださいます。
 悪霊を取り払ってくれた人は、服を着て、正気に戻ったと書かれています。イエスさまについて行きたいと言いますが、自分の家に戻り、神さまが自分になさったことを話して聞かせなさいと言います。ここで、はっきり分かることは、少なくともイエスさまは、悪霊を裁いても、この人を裁いてはいません。悪霊を憎んでも、この人のことは憎んでいない。というより、イエスさまはこの人を特別に愛されています。あの時のあなたは、本来のあなたではなかった、そう言われているようです。イエスさまはこの人を愛されて、本来の姿に戻してくれた。
 程度の差はあれ、誰しもが自暴自棄だった時期を経験し、でもそこからまた立ち直った人です。程度の差はあれ、いまだに日々、「自分なんか」という思いが心にあり、その思いが大きくなったり、小さくなったりしている私たちです。でも、この週の初めに私たちはイエスさまと出会うことができました。この一週間も、神さまに赦され、神さまに愛され、神さまに祝福されて、新しい一週間を始めていきましょう。