No.111

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年6月26日 聖霊降臨後第3主日

ルカ福音書9章51~60節 「 覚悟 」 吉田達臣

 9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 55 イエスは振り向いて二人を戒められた。 56 そして、一行は別の村に行った。 57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

 ルカによる福音書は、今日の日課の箇所から後半に入ると言われています。降誕、洗礼者ヨハネ、ガリラヤでの活動が前半で描かれ、今日の箇所は、

 9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

 そう始まっています。十字架のエルサレムに向かう決意を固めた、そう書かれています。受難の匂いが漂い始めています。
 信仰を持つというのは、決して心地よいことばかりが起こるわけではありません。自分の弱さ、自分の罪深さが突き付けられていきます。以前聖書を読み始め、礼拝に通い始めた人に、こんなことを言われたことがあります。教会に来る前は、人の悪口を言っても平気だったし、赦せない人がいても、当たり前だと思っていた。それが教会に通い始めるようになって、悪口を言う自分が気になりだしたし、人を赦せない自分って駄目だなあ、と思い始めた。それですっかり、人の悪口など言わなくなればいいし、それですっかり人を赦せるようになればいいのに、今のところそうもならない。信仰生活を重ねていけば、自然と悪口など言わなくなったり、人を赦せたりするようになるのでしょうか。そう聞かれたことがあります。確かに以前よりは、悪口は少なくなったり、赦せる人が少し広がったり、ということはあるかもしれないが、しかし残念ながら、皆さんご存知のように、この葛藤は生涯続きます。
 加えて言えば、人を愛することは、人から愛されることにもつながり、そこで更に人を愛せるようになる、そんな好循環を生み出すということはありますが、全てが必ずしもそうはうまくはいきません。イエスさまは、故郷のナザレでは受け入れられず、先週の異邦の地、ゲラサ人の地方でも、悪霊に取りつかれた人を解放しながら、恐れられて出ていってほしいと言われます。今日の箇所で言えば、サマリアでも歓迎されず、エルサレムでは十字架に架けられていきます。愛は、必ずしも報われない、私たちはイエスさまに従おうとするとき、そのことを飲み込まなくてはいけません。
 今日の後半の箇所には、弟子の覚悟という小見出しがつけられていますが、イエスさまに従うためには覚悟が必要です。今日の箇所でイエスさまは、イエスさまに従いたい、という人に対して、人の子には枕するところもない、と語られています。愛することは必ずしも報われないだけではなく、終わりがないものでもあります。イエスさまが私に従いなさい、と語りかけた人が、父を葬りに行かせてくださいと言ったところ、

 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

と言われます。次に、

「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」

といった人に対しては、

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

 これはずいぶん厳しい言葉です。しかし、これは聖書の教えとして、父を葬ることを禁じたり、家族と会うことを禁じているわけではありません。教会は、他のどの場所よりも親の葬儀を行ってきました。ただしそれは、葬りのためではなく、神の国を伝えるためです。今日の第一日課では、エリシャという預言者が預言者の活動を始める前に、いとまごいに行かせてもらっています。パウロの手紙の最後の方には、決まりごとのように、家族を大事にするように教えています。イエスさまは、その人たちに覚悟の揺らぎを感じ取ったのかもしれません。この覚悟は、厳しいようですが、決して特別なものではありません。大麻にいたころ、幼稚園で避難訓練の打ち合わせをして、それが終わった後、ある先生が、家族の中でも、災害が起こった時、集合場所を決めているという話をしてくれました。ただ、母親からは、あなたは無事に子どもたちを避難させて、きちんと保護者に引き渡してから来なさい、と言われたそうです。教師にしたって、消防士にしたって、客室乗務員や、ホテルマンだって、それぞれに使命があり、守らなければいけない人がいます。家族を後回しにしなければならない場面はあり得ます。その覚悟がなければなりません。
 信仰を持つということは、心地よいことばかりではなく、葛藤が与えられ、悩みが与えられることでもあります。時には、家族を後回しにしなければならない、そんなことも起こる道です。
 いずれにせよ生きている限り、悩みや葛藤は尽きません。でも悩むなら、人を愛せないことに悩みましょう。人を赦せないことに葛藤しましょう。忙しく人に仕えながらも報われない、それでも人を愛し続け、人に仕え続けるイエスさまの姿に、私たちは心動かされたものです。たとえ報われなくても、自分は人を愛そうとし続ける、その覚悟を決めましょう。
 選ぶ覚悟は、捨てる覚悟です。本当に大事なものを選び、あとは潔く後回しにしよう、その覚悟ができると、案外すっきりするものです。ここにいる人は、イエスさまの愛の道に招かれている人です。この一週間も、イエスさまに従って歩みましょう。