No.113

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年7月10日 聖霊降臨後第5主日

ルカ福音書25~37節 「 神の声 」 吉田達臣

 10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 私がキリスト教文学にも、聖書にも出会う前に、神さまについて考え始めたきっかけの本があります。武者小路実篤という人が書いた、「人生論」という本です。その本には、人は宇宙の意志、神の声を聞くことができると書いてありました。そんなわけないと思って読み進めると、神の声とは、耳元で日本語で聞こえてくるのではなく、心に湧き上がるものだと言います。花や海を見て、きれいだと感じるのは、自然を大事にしなさいという神の声で、子どもを見て可愛いと思うのは、子どもを守ってあげなさい、という神の声。困っている人を見て、かわいそうだと思うのは、助けてあげなさい、死ぬのが怖いのは、生きなさいという神の声だと言います。それまで、楽することばかり考えていましたが、心に響く声を聞こうと思うようになりました。
 今日の箇所は、善きサマリア人の話です。話のきっかけは、律法の専門家が永遠の命を得るには、何をしたら良いのかとイエスさまに尋ねます。イエスさまはそれに答えずに、あなたは聖書をどう読んでいるかと聞かれます。この人は、心を尽くして神を愛すること、隣人を自分のように愛することだと答えます。イエスさまと律法学者たちとの違いは、律法学者が、神の掟、律法に違反しないことが大事だと教えるのに対して、イエスさまは、たんに律法に違反しなければよいのではなく、その真髄は、神さまへの愛であり、隣人への愛がなければいけないと教えます。この律法の専門家は、そこを分かっています。イエスさまは、正しい答えだ、それを実行しなさい、そうすれば命が得られる、と教えます。この人は、分かっていながら、実行しえない、自分にも気づいており、自分を正当化しようとします。自分の隣人とは誰なのかと。そこでイエスさまは、たとえ話を始めます。
 強盗に襲われて倒れている人がいる。そこを礼拝に仕える、祭司やレビは、道の反対側を通って通り過ぎていったが、当時ユダヤ人と仲の悪かったサマリア人は、倒れている人を見て、憐れに思い、介抱して、宿屋まで連れて行ったと言います。誰が倒れている人の隣人になったのか、そう問い直すと、律法の専門家は、助けた人だと答えます。あなたも同じようにしなさい、とイエスさまに言われます。
 この善きサマリア人の話、分かりやすくいい話だと思います。しかし、同時に心が痛い。見て見ないふりをして通り過ぎてしまう祭司やレビ人の姿に、自分の姿が見えるからです。出来ていない自分を正当化しようとする律法の専門家に、自分の姿を見るからです。
 最近ブルシットジョブ、についての本を読みました。ブルシットジョブ、というのは「クソつまらない仕事」という意味です。自分の仕事はあってもなくてもいい仕事だと感じている人が、調査した国では半分近くの人がそう感じていると言います。それは3K の大変な環境の労働者が感じているのではなく、わりと高給取りの人が多く感じている。コスパ、コストパフォーマンスのいい仕事、少ない労力で、たくさんの利益を上げるものほど、自分の仕事など、あってもなくてもいい仕事だと感じているそうです。
 愛は、とてもコスパの悪いものです。サマリア人は、倒れている人を見てかわいそうに思い、助けてあげる。そのせいで、旅の予定は遅れたでしょう。必要のない労力を使い、お金だって余計に使っています。でも、憐れに思った、その思いに従った。心に響く声があれば、聖書の教えなんかいらないようにも思えますが、もちろんそんなことはありません。私たちの心には、悪い誘惑の声も響きます。しかも、匠に誤魔化し、正当化します。それを聞き分けるには、神さまの喜ばれることかどうか、隣人のためになるかどうかが、大事な基準になります。
 私たちは、すれ違う困った人をことごとく助けていく、そういうことはもちろんできないでしょう。しかし、どうしても気になること、どうしても心に引っ掛かること、なぜか見逃せない思いになること、それは神さまから声をかけられているのかもしれません。関われば余計な時間も、労力も使うことになります。関わらないほうが、断然コスパの良い人生を送れます。でも、恐らく、コスパの良い人生は、クソつまらない人生に近づいているのかもしれません。
 神さまが喜ばれ、隣人のためになる、この小さな働きに、今、自分が神さまに声をかけられている、そう感じられる時があります。そこには本当の命があると聖書は教えます。そこには永遠の命につながると聖書は教えます。もしかしたら、その小さな愛の働きは、それだけにとどまらず、次なる愛に生まれたり、広がったりするものかもしれません。ほんの半歩でも、神さまの声に近づいていきたいと思います。効率の良い生き方ではなく、どうせ生まれたのですから、本当の命を生きたいと思います。