No.115

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年7月24日 聖霊降臨後第7主日

ルカ福音書11章1~13節 「 祈り 」 吉田達臣

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

 イエスさまが祈り終えると、弟子の一人が祈りを教えてほしいと願います。それは少し分かる気がします。祈らなければならない、祈りは大切だと言われるより、朝まだ暗いうちに祈りに出かけ、12人の使徒を選ぶときは、山で徹夜で祈る。イエスさまが熱心に祈っている姿こそ、人を祈りに向かわせる力があります。そして私たちも聞きたくなります。あなたは何を祈っているのでしょうか。祈りを教えてほしい。そして、祈りとはそもそも何なのだろうとも思います。祈りと願掛けは、似ているけど、少し違う印象を受けます。その違いとは何なのだろうと思わされます。
 今日の箇所で、イエスさまは主の祈りを教え、そして祈りについて語ってくださいます。
 改めて主の祈りを思い返すと、私たちから自然に出てくる祈りとは、少し違うものを感じます。私たちの祈りは、あからさまではないにしても、自分の思い通りにしてほしい、そういう思いが出てしまいます。しかし主の祈りには、神さまへの愛と、隣人愛を感じます。自分の思い通りにしたいと、祈るものばかりであれば、この世界には必ず争いが生まれてきます。しかし、イエスさまは自分の思いではなく、神のみ心がなるように、そう祈ることを教えてくれます。日ごとの糧を、という祈りも、これは自分だけのことではなく、私たちの日ごとの糧です。私ではなく、私たちです。全世界のすべての人です。ルカでは「毎日」マタイでは「必要な糧を今日」と書かれています。併せて日ごとの糧と祈っていますが、意味で言えば、今日必要な分を与えてください、という意味です。なるべくたくさん蓄えておきたいものですが、今日必要な分が与えられる事だけを祈り、それが与えられれば感謝出来る者だと教えられている気がします。そして、赦しを願います。赦しを願うとき、自分も人を赦すことは、当然のことです。そしてなお、自分の弱さを認め、誘惑を退け、自分の思い通りにしようとする心から離れられるように願います。
 そしてイエスさまは熱心に祈ることの大切さを教えるため、一つのたとえ話をします。旅をしている友人が真夜中に訪ねて来たと言います。そこで出すパンがなく、違う友人に、パンを3個借りに行く話です。最初は渋っていたが、しつこく頼めば、貸してくれるという話です。ある牧師が、実は意外に大切なのは、これがもともと、旅をしてきた友人に出すパンのためだということです。現代人にとって旅は、リゾートで楽しむもの、というイメージが先に来るかもしれません。今はコンビニがあり、いつでも何でも手に入り、宿泊できるところもたくさんある。水もどこでも手に入る。しかし、2000年前の、中近東の旅は、大変なものです。聖書で、特に世話をしてあげるべき人として、孤児や寡婦、病気の人や旅人と言われます。孤児や寡婦、病気の人に並ぶような大変な思いをしている人です。熱い日中移動することができず、夜中に旅人が訪れてくるということは、時々あったと言われています。その旅人のためだから、しつこく求めることができました。その後求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、という教えが続きます。ある程度の信仰生活を送っている人は知っていると思います。同じことをしつこく祈り続けるって、簡単なことではありません。祈ることは簡単ですが、祈り続けることは、難しいことです。
 ただ、人は自分のためなら妥協しますが、愛する者のためならば、恥をかけます。執拗に頼む、という聖句の執拗に、という言葉は、「恥知らず」という意味があります。愛から出た頼み事は、不思議な力があり、不思議と最終的に断れない思いにさせられます。人間でもそうなるのに、神さまがその願いを断ることがあろうか、と言います。
 私たちはもともと自己本位で、愛の小さなものです。加えて言えば、愛があったとしても、人を助ける力のないものでもあります。でも、そのような時は祈りなさい、と聖書は教えます。求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。愛から出た祈りは、祈り続け、求め続けることができます。祈りには愛が含まれている気がします。自分本位な願掛けは違和感がありませんが、自分本位な祈りには違和感があります。
 まず自分本位なもの同士で争い合う世界ではなく、神の国を求めましょう。自分も含めですが、自分以外の人も満たされる世界を求めましょう。赦し合う世界を求めましょう。人を愛する心を求めましょう。愛する者を助ける力が与えられることを祈りましょう。
 イエスさまは言われます。

 あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 神さまは必ず良いものを与えてくれます。祈りながら、新しい一週間を始めましょう。