No.116

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年7月31日 聖霊降臨後第8主日礼拝

ルカ福音書12章13~21節 「 飢えと渇き 」 粂井 豊

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン
(一コリ1:3)

 

今日の福音書の御言葉は、“「愚かな金持ち」のたとえ”と見出しに記されている通り、そのまま私たちにも愚かな金持ちと理解できる譬え話ではないでしょうか。それほどまでに分かりやすい話です。ところで、この譬え話の金持ちが自分のこととして向けられて話されていると、私たちは思えているでしょうか。聖書の言葉を聞いたり、読んだりする中で、大切なことは、その話が自分に関わること、自分に向けられて語られていることとして向き合って行くことが大切と、今日の説教準備をさせられている中で、また改めて思わされています。この譬え話が語られたきっかけは、イエスさまが大勢の人々に、さまざまな話をされていた時のことです。遺産相続のことで兄弟と争っていた群衆の中のひとりが、兄弟に忠告して欲しいと、イエスさまにお願いしたからです。イエスさまの力強く、権威ある言葉に圧倒され、聞き惚れながら、イエスさまが兄弟に忠告をしてくれれば、自分の意見を無視する兄弟も耳をかすだろうと思ったのでしょう。ところが、イエスさまは、その人に向かって「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と言って、この人の願いを拒まれます。
私も良くやってしまうことです。たとえば、私の連れ合いが、愚痴や不満を言ったとします。その愚痴や不満がうっとうしく感じてきますと、“いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。”と聖書の言葉を用いて諭します。すると、“何を言ってるの、あなただって、不満や、愚痴を言っているでしょう”と強い語調で言い返される、その強い言い返しにムカッとして、また、別の聖句を使って“人を裁くな”とイエスさまはおしゃっているでしょう“と言い返すと、さらに強い語調で、”何さ、あなただって時々人を批判しているくせに“と返される語調の強さに、ムカッとが、腹立たしさに変わって、喧嘩になってしまうという有様です。このように、聖書の言葉は人に向けて語られている言葉ではなく、徹底して、私に向けて語られている言葉なのです。
遺産相続の争いの要因となる兄弟は、兄か、弟か、この言葉だけでは分かりませんが、多分、話の流れからはお兄さんでしょう。イエスさまは、突然、遺産争いの問題性を訴えてくる兄の問題はもちろん理解されていたと思うのですが、お願いをしてきた人の中にも、貪欲さがあることを暗に気づくようにと、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と拒絶されるかのように言われているのだと思います。
今日の箇所でさらに大切なことは、この問題は、この人に向けてだけでの問題はなく、その様子を見ていた周りにいた群衆にも、矛先を向けられているということです。やりとりを見ていた群衆は、イエスさまが拒まれる姿に、“そうだ、そうだ”と相づちを打って、その内容のことは自分にもあてはまる問題であるとは思っていなかったと思います。自分の貪欲さに目が向いていない群衆一同に、あなたたちも、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」とイエスさまは語りかけているのです。何度も言いますが、つまり、私が囚われ惑わされる貪欲さに注意しなさい。と言う語りかけです。
譬え話は、ある金持ちに起こった出来事として語られています。そこで、私たちは、ある金持ちという言葉を受けて、私は、金持ちではないからと思うかもしれません。そうでしょうか。この金持ちというのは、金銭的に豊かなお金持ちということだけを示しているのでしょうか。そうではないと思います。物資だけでなく、自分の地位、名誉、しいては自分の存在の尊厳を保持できる豊かさにある人々をも含んでいると思います。先日、札幌私立連合会の研修会がありました。この研修会の講師はホームレスの人々のために支援活動をしている北九州市のバプテスト教会の牧師である奥田知志先生を招いての講演会でした。余談ですが、この奥田先生を札私幼の保育者の研修会のために呼ぶことになったのは、札私幼の研修委員のメンバーに入っている私たちの幼稚園の長内大智先生が、推薦し、招くことができたのです。個人的な思いになりますが、長内先生は良い勉強をされている、と嬉しくなりました。その講演会もとても学ばされた時間でしたが、講演会後、講演会場で売り出された、奥田先生と脳科学者の対談を中心とした“「助けて」と言える国へ”という集英社新書を購入し、読んで、とても学ばされました。その中で、ホームレスの人々が、もっとも辛く、悲しいことは、家がないことや、食べ物が自由に食べれないことではない、自分の存在を無視され、人としての尊厳が持てないことだ、というようなことが記されていました。少なくとも、人を批判できる私たちは、まだ自分の尊厳を自分の力で保ているように、錯覚できる豊かさの中に富んでいる、ある金持ちなのです。ですから、この譬え話は、私のことなのです。
この譬え話の問題点は、どこでしょうか。金持ちの畑が思いもかけない豊作となり、その作物がしまう場所がないので、倉を大きくし、貯蔵しようと考えたことは知恵を働かせ無駄にしないように考えたのは良かったのだと思います。問題は、“こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。”というところにあるのです。この箇所での聖書の訳で面白いことに気づかされました。今、私たちが用いている新共同訳聖書では分からないのですが、以前用いていた口語訳聖書の訳では、17節の『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』のところを、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と“私の作物と”訳しているのです。18節も同じです。口語訳は、「こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて」と、私の倉とやくしているのです。
私たちは、知らず知らずのうちに、自分中心に生きていき、自分が満足し、自分が安心することからしかさまざまなことを考えなくなってしまうのです。そのような私たちの日本の国の姿を見て、ノーベル平和賞を受賞されたカトリックの修道女であるマザーテレサさんが今から約50年前に訪れた時に、「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」という言葉を語られました。これは、日本の国だけでなく、富める経済的に発展している全ての国々に当てはまることですが、そのような一般論的なこととしてではなく、私はどうか、だと思います。私は、本当に、枯渇した飢えかわく貧困の中にある生活におかれているのでしょうか。そうではないと思います。それなりに苦しくても満たされている生活の中におかれていると思います。にもかかわらず、私たちは、私がさらに満たされる貪欲の誘惑にまどわされるのです。アモス書8章11に「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」と。私たちは、知らず知らずの内に、主の言葉を聞いていても、聞けない飢えと渇きの中に落ちいていることに気づかなくなるのです。イエスさまは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言って、パリサイ派の人々に向かって語られました。私たちは、自分自身で自覚しない中で、知らずうちにパリサイ派の人々のようになってしまうのです。ですから、このように毎週の礼拝で、御言葉を聴き、主を賛美し、主に祈る時間を、ひとりではなく、みんなで過ごすために、ここに集まってきているのです。

人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守られるように。
アーメン。                  (フィリピ4:7)