個人で礼拝を守るにあたって
〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。
2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日
ルカ福音書12章49~56節 「 神さまの御旨に 」 吉田 達臣
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
先週の礼拝は、平和主日という主日でした。しかし、今日の福音書の箇所では、イエスさまが、私が地上に来たのは平和をもたらすために来たと思うのか、むしろ分裂だ、と語っています。どのような思いで受け止めればよいのか、戸惑ってしまいます。主日の並びだけではなく、聖書を読み始めた人が、わりと最初に戸惑いを覚えて、質問をしに来る箇所が、今日の日課の箇所だったりします。イエスさまは、地上に火を投ずるために来た、平和ではなく分裂をもたらすために来た、というこの聖書の言葉は、何を意味しているのでしょう。
先週アメリカの下院議長のナンシーペロシが、台湾を訪れ、また、その後日本に来日されました。そのせいで、台湾近郊で、中国が大規模な軍事演習を行い、緊張も高まっています。彼女が台湾を訪問したこと、アメリカ国内でも、日本の評論家でも、賛否両論あるようです。私の耳に入ってくる分量で言えば、批判のほうが多いようにも思われます。しかし、ナンシーペロシは、パフォーマンスやレガシーづくりといったものではなく、ずっと前から、中国の人権意識について、天安門事件の頃から、一貫して厳しく批判してきた人のようです。
先週たまたま聞いた言葉なのですが、私の好きな映画監督に、小津安二郎という人がいるのですが、その小津安二郎の言葉で、
どうでもいいものは流行りに従う、重要なものは道徳に従う、芸術に関しては、自分に従う
という言葉を語ったことがあるそうです。映画や芸術に関しては、自分の感性を信じる、ということを大事にしたんだと思って、良い言葉だなあ、と思ったんです。ただ、何度もこの言葉を思い返しているうちに、初めは、最後の言葉、芸術に関しては、自分に従う、という部分が印象に残っていたのですが、だんだん、真ん中の言葉、重要なものは道徳に従う、という部分に心惹かれるようになりました。重要なものは、流行り、流行、世の中の流れではなく、自分の感覚でもなく、道徳に従う、と言います。ナンシーペロシという人は、事なかれ主義の人から見れば、空気読まない人だと思います。わざわざそんなことをして、事を荒立てなくても、と思います。でも、彼女にとっては、中国の人権意識の問題は、重要なことで、世の習いや、空気ではなく、問題を示す行動をとったのだと思います。
小津安二郎の言葉を、キリスト教的に言い換えれば、どうでもいい事は、流行や世の習い、場の空気に従ってよいのだと思います。しかし、重要なことは、世の流れでもなく、自分の思いでもなく、神さまの御旨に従う。多少物議をかもしても、そこから騒動になったとしても、それでも、神さまの御旨を尋ね求める。
私たちの教会の基である、ルターという人がそうだったのではないでしょうか。ルターの発言で、教会に火が投ぜられました。そして、最終的には、分派分裂が起こりました。当時のローマ教会の空気読んで、95箇条の提題なんて出さなければよかったのか、歴史を振り返ると、決してそうは思いません。やはり重要なことは、空気を読むのではなく、自分の意見を述べるのでもなく、神さまの御旨を尋ね求める。
何よりもイエスさまはどうだったでしょう。罪人と共に食事をし、罪人に赦しを語る。安息日に手の萎えた人を癒す。たんに律法を表面的に従っていくのではなく、根底に愛がなければいけないと語り、ファリサイ派や律法学者を偽善者だと語っていきます。火を投じ、賛否両論を起こして行った人です。
加えて言えば、あなたのような人を招き、洗礼を施し、神の子に加えた、だいぶ賛否両論が起こるかもしれない。でもイエスさまは、賛否両論起こっても、いや、批判ばかりが起こっても、罪人と共に食事をし、罪人を赦し、安息日にも人を癒し、あなたを招いて、洗礼を施し、神の子に加える方です。
なぜそうしたのか、その時代の空気より、神さまの御旨に従ったからです。
私たちも、重要なことは、世の中の流れでもなく、自分の思いでもなく、神さまの御旨に従って歩んでいきましょう。