No.121

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年9月4日 聖霊降臨後第13主日

ルカ福音書14章25~33節 「 自分の十字架 」 吉田 達臣

 14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 「ドライブマイカー」という映画があります。昨年公開された映画ですが、今年初め、話題になりました。日本の映画ですが、アメリカのアカデミー賞で、作品賞と監督賞にもノミネートされました。私も見たのですが、正直初見では意味が分かりませんでした。ただあるロシア演劇の批評家の書いた文章を読んで、ようやく少し分かりました。主役は、西島秀俊ふんする普段は自ら役者も務める、舞台の演出家の男性です。しかし話のメインの部分では、その主人公は演出だけをしていました。演目は、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」。稽古が始まると、とにかくその主人公は、けいこの中で役者に、感情をこめないように、自分を出さないように注意していきます。役者の中には、私はロボットではない、と怒る人も出てきます。でも、稽古をしているうちに、その演劇に何かが起こり始め、この演出の意味を感じ始めるんです。ところが、いよいよ稽古も大詰めになり、本番間近というときに、主演をするはずだった俳優が事件を起こして、逮捕されてしまいます。ここまで稽古してきたものが、水の泡になる。製作者たちは演出家に、あなたが主演で本番をしてほしいと頼みます。しかし、その演出家は、それを渋ります。渋った理由は、「チェーホフは、自分を露わにするからだ」と言います。最終的には、いつも運転手をしてくれていた女性と一緒に、自分が目を背け、避けてきた問題に向き合うドライブの旅に出る。そして舞台に立つ決心を固めていきます。
 とても印象に残ったのは、主人公の演出家が、チェーホフは、自分の弱さを露わにしてくる、そう言って役を担うことを恐れたことです。本当に優れた演劇というのは、うまくやりこなすものではなく、その役を自分のものにするのでもなく、役者の方がその役に飲み込まれ、その物語に飲み込まれ、隠していた自分が露わになる、そんな話に思えました。
 それは、聖書や信仰もそうです。聖書や信仰を、おいしいとこどりで、いい部分だけ取り込もう、というような思いで関わると、大きなやけどをするかもしれません。
 今日の日課の言葉を使えば、イエスさまの弟子になるということは、一万の兵で二万の兵と戦うようなものです。まともにいけば勝てない。ならば腰を据えて考えるだろう。それは、普通の建物ではなく塔を建てるようなものだと言います。十分費用があるか、あらかじめ腰を据えて考えるだろうと言います。
 信仰の道に入るって、自分の問題、自分の弱さに向き合わされることでもあります。ドライブマイカーも、ずっと向き合うことを避けてきた夫婦の問題、ずっと向き合うことを避けてきた親子の問題、家族の問題、ずっと向き合うことを避けてきた自分の中に潜む悪意の問題。それに最後ようやく向き合うという話でもあります。向き合いたくない気持ちもよく分かります。でも、逃げ続けることで問題が解決せずに終わり、後悔する話です。その後悔もあって、最後向き合うのですが、もっと早くそうしておけばよかったと思わされます
 イエスさまの弟子になるって、心地の良いことばかりが起こるわけではありません。自分が愛する者の抱えている問題、そして自分自身の問題に向き合わされることでもあります。信仰がそんなに大変なものならば、わざわざ持たなくてよいように思えます。でもそれは、見ないようにしている問題を、見ないで済ませているのとおんなじです。
 人の相談にのっていて時々思うことがあります。人は問題の核心に向き合わないように、ものすごくエネルギーを使っている。向き合う勇気さえあれば、この10分の1の力で問題は解決できる。でも、向き合うのが本当に怖い。
 出来れば開かずの部屋に、閉じ込めておきたい問題もあります。でも、怖いけど、本当は手遅れになる前に、向き合っておかなければならない問題もあります。
 イエスさまは言います。自分の十字架を背負って私についてきなさいと。十字架の先にこそ、復活の道が開けます。一度絶望を通らなければ見えない希望があります。愛と赦しの救い主であるイエスさまと共に、自分の十字架を背負い、新しい自分に出会っていきましょう。