No.122

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年9月11日 聖霊降臨後第14主日礼拝

ルカ福音書15章1~10節 「 天上での喜び 」 粂井 豊

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン
(一コリ1:3)

 安倍元首相が暗殺されたことから、このところ世界平和統一連合(旧統一原理教会)問題が再びクローズアップされています。統一原理教会問題は、1960年代後半から「原理運動」による家庭崩壊、学業放棄、さらには霊感商法などで、1980年から90年頃には、広告塔の一員として韓国での合同結婚式にも参加した歌手の桜田淳子さんや体操オリンピック代表の山崎ひろ子さんなどが話題になっていた問題です。
 悪徳商法などは、本来の宗教の歩みからは認められないほどひどい問題で論外ですが、カール・マルクスが「宗教は民衆のアヘンだ」と言っていますように、ひとつ間違えると、キリスト教会でも、イエスさまの十字架を御旗に、福音という信仰の喜びが、アヘンに変わってしまう可能性があります。
 その違いは何かを、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)と言われたように、私たちは注意深くイエスさまの言葉に耳を傾けることが大切だと思います。
 私たちは、何故イエスさまを信じる群れなのでしょうか。キリスト教会と他の宗教とは、どう違うのでしょうか。一概に他の宗教を批判することはできませんが、ほとんどの宗教は教祖が居て、その教祖による教えが大切にされます。ともすると、キリスト教会も聖書の言葉を教えとして話されてしまうことがあります。イエスさまがこう言っておられるから、そのことを大切に、人に親切にしてあげましょう。等と、道徳的な話しにしてしまうのです。そのような、道徳的な話しであれば、幸福の科学や、成長の家や、PL教団等々と何ら変わらなくなってしまいます。
 私たちが聖書の言葉を聴き学ぶのは、教えではないのです。聖書の言葉を読み聴きながら、イエスというキリスト(救い主)に出会い、キリストであるイエスさまと対話しながら歩む生活です。
 最近、私は親鸞聖人が説いた「歎異抄」を読んでいます。多くの人が言っているように、浄土真宗を説いた親鸞聖人は、聖書の言っていることと非常に近いことを言っています。歎異抄の三章に、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、『悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや』。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。」
 文語的な言葉ですので、少し意訳をしますと、親鸞聖人は、善人でさえ浄土へ生まれることができるなら、ましてや悪人は、なおさらだと言われているのに、世の人は、「悪人でさえ浄土へいけるのだから、ましてや善人は、なおさら行ける。」という考えにたっている。このような考えは、一見もっともらしく思えるが、阿弥陀入来の考え方の趣旨に反することだ、と言っているのです。
 私たちも、親鸞が言うように、世の人々が考える、「悪人でさえ浄土へいけるのだから、ましてや善人は、なおさら行ける。」という考え方に立ちがちではないでしょうか。
 今日の福音書は、皆さまが何度も聞いている、見失った羊と無くした銀貨のたとえです。今日の日課がどうして10節までという二つのたとえを取り上げたのか、不思議に思っていますが、本来、このたとえは、この後の放蕩息子のたとえに、しっかりつながっている話しです。この二つのたとえを取り上げるならば、三つ目の放蕩息子のたとえもとりあげるべきだと思いますが・・・。もし、長いからということや、放蕩息子のたとえだけで、たくさんの学びが展開できるという時間の問題であるならば、今回は、99匹の羊と見失った1匹の箇所だけで充分だと思いました。それは、ともかくとして、この三つのたとえは、見失った一匹、無くした一枚の銀貨、いなくなって死んだと思っている一人の息子が帰ってきた、という、100対1、10対1、2対1と、だんだんと人数が少なくなって行く中で、失った者が帰ってきてくれることを、父親である神は、どんなに喜んでいるかという話しです。見失った羊を探して見つけた喜びのたとえから、見失った銀貨の発見の喜びや、離れてしまい死んだかもしれないと思った者が帰ってきた喜びのたとえを語るきっかけとなったのは、ファリサイ派の人々や、律法学者の人たちが、「イエスさまは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言ったのを聞かれたからだと、ルカは記します。イエスさまは、これまでに再三、ファリサイ派の人々や、律法学者の人たちの問題性を指摘されていたのです。彼らは、自分たちにも問題が無いわけでは無いが、他の者たちよりもましだ、と思っているのです。神さまは、そのおごり高ぶりを持っている、心の醜い存在である人たちのためにも、イエスさまを十字架にかけ、みんなが共に生きようとする新しい歩みへと向き直ってくれるように、救いを与えてくださったと聖書は語っているのです。その十字架にかけられて死に神によって甦ったイエスさまと私たちは向き合うのです。
 私たちは、イエスさまの愛によって救われなければならない存在だという自分を感じているつもりです。感じていると思っていながら、知らないうちに、他人を見て、あの人は、努力しないからダメだと見下してしまう、私はあの人よりもダメ人間ながらも多少は努力していると、自分と他者を比較して自己肯定感の中にはまってしまう、または、私は他者より劣っていて、なんてダメなんだろうと自己卑下の劣等意識に目が向いてしまう、自己のプライドという罠なの中に陥ってしまうのです。イエスさまは、そのあなたのために十字架にかかってくださり、私が、他者と比較して生きる生き方から自由にしてくださったのです。
 それは、親鸞の言うような教えではありません。私の罪の贖いの身代わりとなって死に、復活されたイエスさまと出会うのです。今では直接目に見ることはできませんが、聖書の言葉を通してイエスさまと人格と人格の出会いをするのです。人格的な出会いの中で、「私はイエスさまのように歩みたいと思います」と言いつつも、すぐさまイエスさまの思いから離れ、自己本位の思いの中に陥ってしまっていることを見失ってしまっていることに気づかされるのです。その、私を、イエスさまは、何度も何度も迷い離れてしまう私を捜し求めつづけてくださっている触れ合いをするのです。そして、私が、イエスさまの方に心向けた時、見つけ出したと喜ばれていることを知るのです。ルカは、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と喜びは天にある、と言っています。喜びは、私にあるのではないのです。今日の説教題を「天上での喜び」と記しました。天上とは、どこでしょうか。もちろん神の国です。私たちが、自分の心に囚われてさまざまな思いを持つのでは無く、神さまの方に心を向け直して歩もうとした時、神さまの国では、神さまが大いに喜んでおられるというのです。私たちはそのような神さまと出会い、その神さまに従いたいと日々新たに歩みなおそうとする生き方へと導かれているのです。

人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守られるように。
アーメン。                  (フィリピ4:7)