No.124

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年9月25日 聖霊降臨後第16主日

ルカ福音書16章19~31節 「 与えられたもの 」 吉田 達臣

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 私は選び取って、この時代のこの国に生まれてきたわけではありません。何か予選を勝ち抜いて、1970年の日本に生まれたいと願い、その願いが聞き入れられたというわけではありません。たまたま与えられた場所が日本で、この時代で、吉田達臣という人間をしています。もしかしたら、違う時代の、違う人間だったかもしれません。
 今日のたとえ話では、ある金持ちがいて、ぜいたくな暮らしをしていたと言います。その金持ちの家の門前に、できものだらけの貧しいラザロという人がいて、その金持ちの残したものでも食べて、腹を満たしたいと思っていたと言います。しかし、二人が死ぬと立場は逆転していて、貧しかったラザロは、族長アブラハムとともに、宴の席についている。金持ちは黄泉に下り、炎にもだえ苦しみ、のども渇いていたようです。金持ちはアブラハムに向かって、ラザロを遣わして、水を与えてくれと願いますが、聞き入れられません。それならばと、金持ちはラザロを今生きている兄弟のところに遣わし、自分と同じ目に合わないように伝えてほしいと願います。しかし、アブラハムは、モーセと預言者の書に耳を傾けないのなら、死んだ者が生き返って解いても耳を傾けないと言います。
 ここでは、ラザロは特に信仰深かったと書かれているわけではありません。それにこの金持ちも、そこまで悪い人間ではないように思えます。もっとラザロを助けてあげればよいのに、とは思いますが、この金持ちはラザロの名前を知っていますし、手厚く助けはしませんが、このラザロを追い払ったりはしなかった。兄弟が自分のように苦しんでほしくないと願ってもいます。これは想像ではありますが、ラザロだって、望んで貧しい生活をしていたわけではなく、出来ればそのような生活から抜け出したいと願っていたでしょう。
 ラザロはたまたま貧しく生まれついた、それが思いもかけず、死後優位な状況になりました。金持ちは、本人の努力もあったでしょうが、優位な状況も与えられ、この世では金持ちになるチャンスに恵まれ、それをつかみ取りました。しかし、それは思いもかけず、死後では苦しむ原因になった。
 この話は、金持ちは地獄に行き、貧しいものは天の宴につくと言った話ではないでしょう。二人とも選んだわけではなく、たまたまそういう境遇に生まれただけです。
 ケニアのルーテル教会を訪ね、その活動を聞く機会がありました。その教会の活動の一つは、ストリートチルドレンを親に再会させ、和解させるという働きでした。もう一つは何らかの事情で教育を受けることのできない子どもに、教会に隣接する付属の小学校に通わせるということでした。他の小学校より、最後までその課程を終えて卒業していく子どもが多い、ケニアで一番だと言っていました。聞いて正直、小学校を全うして卒業してくことは、この国では簡単なことではないのだと思い知らされました。
 私たちは金持ちではないにしても、ある程度の生活をしている。そのために、自分なりに苦労もしてきたし、努力もしてきたと思っている。それは事実間違いのないことでしょう。でも、努力したら、ある程度の生活ができる社会が与えられていることが、そもそも恵まれていることです。努力するチャンスが与えられ、そのスタート台につけていることも、必ずしも当たり前ではありません。私たちは、予選を勝ち抜いて、この環境に生まれてきたわけではありません。それは、たまたま与えられたものです。才能も環境も含めて全ては神さまに与えられたものです。たまたま与えられたものです。もし自分が、他の人よりも恵まれている、そう感じる部分があるとすれば、それをすべて自分のためだけに使うのではなく、神さまと隣人のために使いなさいと、聖書は導いています。自分よりも大変な役割を担って、この世での人生を送っている人がいます。その人のために何かできる機会があれば、神さまに用いていただけるよう、祈りながら新しい一週間を始めましょう。