No.125

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年10月2日 聖霊降臨後第17主日

ルカ福音書17章5~10節 「 主イエスの僕 」 吉田 達臣

17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 今日の聖書の箇所は、多少議論があって、ここでは僕と訳されていますが、この言葉は奴隷とも訳せる言葉です。そして内容的には、奴隷と訳したほうが内容がはっきりします。畑を耕す、羊を飼う、そういう仕事をした後奴隷は、すぐに自分の食事はしないでしょう。主人のために、夕食の用意をし、給仕する。主人が食べた後に食事をとる。主人はそれに対して特別に感謝したりはせず、奴隷の方も、なすべきことをしただけと考える。このような、奴隷と主人の関係を見本とすることは、現代の私たちにとっては、違和感があるというか、引っ掛かりを感じます。私たちは、主人と奴隷の関係というのは直に見たことがないため、ただただ一方的に強制労働させられる、酷いだけの関係を想像しますが、恐らくもっと違った面があったのでしょう。この話は本来、弟子たちが信仰を増してください、と願い、からし種一粒ほどの信仰があれば、という話の中で語られたたとえ話です。
 うちの娘が中学に入って、部活を始めたとき、吹奏楽部でしたが、顧問の先生は割とその地域では知られた有名な指導者でした。その先生が転勤すると、行った先の学校の吹奏楽部が強くなると言われていました。とても信頼できる指導者、師匠のような存在がいると、人は思いもかけない成長をし、力が与えられることがあります。なぜそれをしなければならないかは、いまいちよく分からないものがあるが、とにかくこの先生がやっておいた方がいいと言ったことは信じてやろう、そんな風に思えると多少大変なことでもやりますし、やり続けることもできます。自主的にやろうと思ったことは、大変になってくるとやっぱりやめようと思ってしまう。でも、信頼している指導者、あるいは師匠に言われたことであれば、一生懸命やります。そして、予想もしていなかったような成長をすることもあります。
 今は、漫才をする人は事務所の養成学校に入るようですが、今でも落語家になる人は、最初落語家の師匠に弟子入りします。そこで落語も教わりますが、師匠の身支度の手伝いもします。もともと大好きで、信頼している師匠であれば、その身支度も喜んでしているでしょう。人生の中で、そのような師に出会えた人を、うらやましく感じるときがあります。
 私たちはイエスさまに出会いました。私たちの主は、イエスさまであり、私たちはイエスさまの弟子であり、僕です。実際にイエスさまが命じられたことは、今日の日課では飛ばされていますが、1節から4節を読んでみると、つまずきは避けられないが、人を躓かせる、特に小さなものを躓かせてはいけない、と言われています。兄弟が罪を犯しても、悔い改めたならば赦しなさいと教えています。兄弟があなたに1日7回罪を犯しても、7回悔い改めたなら、赦してあげなさいと教えます。さすがに1日で7回もと思うと、私たちには自然にはできないと思います。しかも、8回目はいいかげん腹を立てて、赦さなくていいと教えているわけではないでしょう。この箇所のマタイの並行箇所では、あの7の70倍も赦しなさい、と教えているところです。回数の問題ではありません。兄弟が悔い改めたならば、赦し続けなさい、と私たちの主は教えています。なぜならば、私たちがイエスさまに贖われたものだからです。私たちが、神さまに対して、もっと多く赦されながら生きているものだからです。私があなたがたの足を洗ったように、互いに足を洗い合いなさい。赦し合いなさい。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい、そうイエスさまは命じられます。
 互いに赦し合うこと、互いに愛し合うことがいい事で、恐らく大切である、ということは聖書を読む前から知っていた気がします。でも、知っていても、必ずしもできていなかったことです。
 あなたの師であり、あなたの主であるイエスさまが、私たちが最も信頼している方があなたへの愛をこめて命じます。小さなものを躓かせてはいけません。悔い改めたならば赦しなさい。そして、互いに愛し合いなさい。信じて、主に従っていきましょう。