No.130

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年11月6日 全聖徒主日

ルカ福音書6章17~26節 「 愛を増やすもの 」 吉田 達臣

6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

 今日の箇所は、マタイでの並行箇所が山上の説教と呼ばれているのに対し、平地の説教と呼ばれたりします。マタイでは、このような人は幸いである、と繰り返し語られていますが、ルカでは、後半にこのような人は不幸である、とも語られています。貧しい人、今飢えている人、今泣いている人は幸いだと言われます。それに対して、富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人は不幸である、と語られます。私たちがまず考えるのは、自分はどっちだろう、と考え始めます。そこで疑問に思うことは、貧しかった人が急に富んだ人になったり、富んでいる人が急に貧しくなったりすることはなくはないが、そんなにしょっちゅう乱高下する人は珍しいでしょう。ただ、私たちは満腹しているときもあれば、飢えているときもあります。笑っているときもあれば、泣いているときもあります。ここでは、今自分がどっちにいるかを考える話ではないようです。ここでイエスさまは何を伝えようとしているのでしょうか。
 私たちはつい、今がだめだから、これからもだめだろうと考えてしまう。しかし、覚えておきなさい、この世を支配される神さまは、憐れみ深い方です。ある牧師が語っていました。ここで書かれているのは、貧しいけど、善い行いをしているとか、飢えているけど信仰深いとか、そんなことは書いていません。そうではなくて、神さまは人の痛みを自分の痛みと感じる方で、憐れみ深い方である。今がだめだから、これからもだめだと思う必要はありません。今あなたが大変な思いをしている、ただそれだけの理由で、神さまはあなたを憐れんでくださいます。イエスさまは、富んでいたらもうそれだけで憐みの対象から外すのかというと、そういうわけではないでしょう。先週の日課は、徴税人ザアカイの話でした。お金持ちだったザアカイを、イエスさまは憐れまれました。富んでいる人の問題は、あなたはもう慰めを受けているからだとか書かれています。多くの説教者が異口同音に語るのは、富んでいるものは中途半端な慰めを受けているせいで、神さまを求めない。より大きな慰めを求めないで、満足してしまっている。そう語られますが、それって本当に悪い事だろうか、とも思います。むしろ、足ることを知っていて、良いことのようにも思われます。フィリピの信徒への手紙でパウロは、

自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 現状与えられたもの、決して十分ではないが、それで満足することを知る、それ自体は悪いことではないでしょう。でも、キリスト者が妥協してはいけないものがあります。現状に妥協せず、祈り求め続けなければならないものがあります。それは、愛です。
 今この世界には、愛が足りない。情けが足りない、憐れみの心がなくなってきています。愛って別に単純にやさしくするとか、そういうこととは限りません。預言者は、自分達の問題、イスラエルの問題を率直に語りました。しかし、それは糾弾するためではなく、悔い改めに導くためであり、良くなっていってほしいからです。それでも迫害されたと言います。偽預言者は、現状に向き合おうとせず、イスラエルに対して、耳心地の良いことを言った、それで褒められたと言います。どっちが本当の意味で、イスラエルに対して愛情を持っているか。
今の日本は乱暴な正義が飛び交っています。一度でも間違えば、二度と立ち上がれなくなることを願って叩いています。ファリサイ派や律法学者のようです。間違っていることが正されることは悪いことではないでしょう。でも、それはもう一度よくなるため、最終的にはその人を救う、という思いがないといけない。今は、愛が足りない世界、情け深さがない世界です。こんな世界になった責任は、牧師やキリスト者に責任があるように思えます。キリスト者とは、イエスさまの愛を伝え、憐れみの姿を伝え、この世界に愛を増やしていくための僕です。もちろん私たちに、全く愛がないわけではありません。しかし、親切にしてくれた人に、親切にするだけなら、愛は増えません。
 イエスさまは、敵を愛せと言われます。敵を愛せと言われても、そんなの無理だとすぐに思ってしまう。既に言葉の中に矛盾があるような気がします。でも、こう考えたらどうでしょう。相手が親切であっても親切でなくても、あなたはいつも親切であろうとしなさい。相手がどんな態度であっても、あなたはその人を愛そうとしなさい。それはイエスさまの姿です。私たちはこのイエスさまの弟子であり、僕です。神さまから憐みを受けるだけでなく、父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい、イエスさまはそう教えます。礼拝に招かれたあなたは、この世界に愛を増やすために、召し出されたものです。愛の足りないこの時代に、ほんの少しでも愛を増やしていきましょう。