No.132

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年11月20日 永遠の王キリスト

ルカ福音書23章33~43節 「 神さまの愛の限界 」 吉田 達臣

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 有志の牧師でリモートで勉強会をしていて、先週小樽の木村先生に講師になってもらって、統一教会についての学びをしました。木村先生は、旭川にいた時代に脱会活動をしていました。色々話を聞きながら、脱会してもまた戻ってしまう人もいると言います。なぜ戻るのかと言えば、それは恐怖心からだという話でした。参加者の牧師で、統一教会に関わった経験のある牧師は少なかったのですが、いわゆる福音派と呼ばれる教会の方から、わりと頻繁に電話がかかってくるという人がいて、電話の内容は、こんなことをしてしまったけど神さまは許してくれるのだろうか。口ではこう言ってても、心の中ではこんな風に考えることもあるけど、赦されるだろうか。そう言った質問がわりとしょっちゅうされると言う牧師が何人かいました。変な言い方ですが、恐怖が求心力になっている。福音派とか、原理主義とか、白黒はっきりしていてわかりやすい。でも、懐の狭いところがあって、これをしたらもうアウト、こんな風に思えなければ、もうだめだ、と思ってしまう。でも、ルーテル教会はだいぶ違います。恐怖心で教会に縛り付けるのではなく、恵みによって教会に引き付ける。福音によって教会に引き寄せる。こうしなければ、悪いことが起こる、という恐怖の縛り付けの方が、もしかしたら人を離さずに済むのかもしれませんが、ルーテル教会はそれをしません。もちろんルーテル教会の専売特許ということではありません。本来の聖書の教えは、恵みであり、福音です。私たちは、私たちの行いではなく、神さまの側の愛と、赦しと、恵みによって救われます。
 それでも、ここまでしたら、神さまでも赦してくれない、そういう限界はあるのでしょうか。私たち人間の中には、どんなに愛情深い人だって、そこまでは無理、それ以上は限界、というところがある気がします。普段は温厚な人でも、余りに疲れていたら、余りにしつこくされたら、余りにもひどいことをされれば、ずっと温厚ではいられない、それでもなお許し、なお愛するということができなくても、私たちは仕方のないことだと思うでしょう。
 今日の福音書の箇所は、イエスさまの十字架の場面です。今日の日課の前の部分を読むと、イエスさまは十字架を背負って歩いています。途中で担いきれず、キレネ人シモンという人に手伝ってもらっています。改めて思います。イエスさまはすでに肉体的には限界に来ていた。そしてイエスさまは十字架に架けられます。十字架上の七つの言葉、と言われますが、当たり前ではありますが、もうすぐ死ぬという状態での言葉です。苦しみの極みの状態です。そこでイエスさまは言います。34節です。

 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 イエスさまを十字架に架けている人の赦しを祈ります。十字架に架けられていたのは、イエスさま一人ではなく、他に二人いたと言います。そのうちの一人は、「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」と言います。この人ばかりではなく、兵士や議員たちも同じように言います。私たちも人のために、という思いを持っています。でも、限界があります。自分をある程度犠牲にしても、という思いだってあります。でも、それにも限界があります。私たちは最後、自分を救うために、人を救うことをやめてしまいます。でも、イエスさまは、最後まで自分を救うことをしませんでした。イエスさまの愛に限界はあるのか。さすがにここまでしたら赦されない、ということがあるのか。そう聞かれたならば、答えることができます。たとえ私たちがイエスさまを殺したとしても、なおイエスさまは許し、愛することができます。私たちの愛には限界がありますが、イエスさまの愛から、私たちを引き離すことはできません。
 十字架に架けられたもう一人の人は、十字架上で赦しを祈るイエスさまの姿を見ていたのかもしれません。自分を救ってみろという罪人に対し、

 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

 そう語りかけます。それに対してイエスさまは言います。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 この言葉は臨終の祈りの時に、召された人の額に触れながら語られる言葉で、私も何度も語った言葉です。でも、ある牧師が説教の中でこう語っていて、ハッとさせられました。この言葉は、イエスさまが死の間際、瀕死の状態で語られた言葉です。イエスさまは、死の間際まで人を救おうとされた。
 この方こそ、私たちの永遠の王、私たちの救い主です。私たちは、イエスさまの前に立つとき、自分のことは誇れなくなりますが、イエスさまのことを喜んで誇ることができます。イエスさまの愛、神さまの愛には限界がありません。限りなく愛してくださる神さまの愛を受けとめて、新し一週間を始めましょう。