No.133

個人で礼拝を守るにあたって

〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。

2022年11月27日 待降節第一主日

マタイ福音書22章34~46節 「 イエスは救い主 」 吉田 達臣

 36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 子どもの頃、夏休みに親戚の家に遊びに行ったら、スイカが出てきて、親戚のおじさんがスイカに塩をかけて食べていたんです。それまで見たことがなかったので、すごくびっくりして、何でスイカに塩かけるの、って聞いたのを覚えています。そしたらおじさんが、塩をかけたら甘くなるんだ、って言われて、そんなわけないだろ、と思ったらそのおじさんが私のスイカにも塩をかけてくれて、食べてみたら甘くなっていて、びっくりしたことを今でも覚えています。
 今日の箇所は、イエスさまの再臨についての話です。待降節は、クリスマスを待ち望む季節でもありますが、イエスさまの再臨を待ち望む季節でもあります。ただ言えることの一つは、キリスト教2000年の歴史の中で、イエスさまが再臨したことは一度もありません。世の終わりを迎えたことは一度もありません。では、この聖書の箇所は、いままでのキリスト教会の中で、何も意味をなさなかったのかというと、そうではありません。世の終わりは来なくても、人は必ず死ぬからです。本当のところ、私たちは今日死んでもおかしくはない。それはノアの洪水のように、前日まで普通に飲み食いして、自分の死など全く予感しない中でも、突然襲い得るものです。人間のみならず、太陽も星も、この世にあるものは、必ず滅びていきます。
 泥棒がいつ入るか分かっていれば、それに対策できるかもしれません。でも泥棒は思いがけない時に突然来る、と聖書は教えます。試験の日が分かっていれば、その日に向かって準備することができます。中には、健康診断の前だけ、健康に気を付けた生活を送る人もいます。でも、世の終わりも、死も、抜き打ちテスト、抜き打ちの検査のようにやってくると言います。付け焼刃がきかない。ですから私たちは、普段から、日常的に、神さまに喜ばれることは何なのか、その思いを持って生きなければいけません。
 今日の日課の直後の箇所は、主人が突然帰って来た時の僕の話です。突然帰ってきたときでも、主人の言いつけを守っていた僕は幸いであり、主人はその僕を信頼するだろうと書かれています。
 私たちは時々思います。結局神さまはすべての人を赦し、全ての人を救ってくれるんではないのかと。先週の聖書の箇所は、イエスさまの十字架の箇所でしたが、イエスさまは、自分を十字架に架ける人たちの赦しを祈り、十字架に架けられるくらいの罪を犯した者の楽園を約束していく場面でした。私たちの行いではなく、イエスさまの絶大な恵みによって救われるとすれば、結局すべての人が救われていくのではないかと思うことがあります。実際にそうかもしれませんし、そうであればと願ってもいます。でも、聖書は私たちが願っているほどやさしくはありません。今日の箇所には、ノアの洪水のことが書かれていますし、人の子が来るときも、

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

 そう書かれています。カール・バルトという神学者も、ある人に、あなたの神学を突き詰めれば、結局すべての人が救われることになるのではないですか、という質問に対し、そうではないと否定しています。結果そうなるかもしれませんが、聖書はそうは語っていないと言います。そのカール・バルトの神学を解説している人は、結局すべての人が救われると言った瞬間、人は畏れを失い、緊張感を失う。イエスさまは言います。目を覚ましていなさいと。

 ただそれでも、私たちが覚えておかなければいけないことは、それが世の終わりであっても、自分の死であっても、その時は人の子が来られるとき、主が帰ってこられるとき、イエスさまが来る時だということです。そしてそのイエスさまは、私たちの救い主だということです。クリスマスの前に、神さまへの畏れを思い出すとき、私たちに救い主が与えられることの喜びの意味が思い出されていきます。塩をかけてスイカが甘くなるように、私たちは神さまへの畏れを取り戻すとき、救い主が与えられている恵みをより深く知ることができます。目を覚まして、救い主を迎える準備をしましょう。