個人で礼拝を守るにあたって
〇 黙想をし、心を鎮め、聞く思いを整えて始めましょう
〇 ざんげをし、憐れみと愛を慕いもとめる思いを持ってみ言葉を聞きましょう。
〇 この原稿にも聖書本文が記されていますが、できれば自分の聖書を開き、必要な時に前後の聖書の流れを見られるようにしておきましょう。
2023 年 1 月 8 日 主日礼拝
「 証し 」 長内 大智
皆さん、こんにちは。本日の礼拝の中で、こうして皆様の前で証しをさせて頂く機会を得
ました。つたない話しかできそうにないのですが、感謝致します。本日は、先日の「北海道
地区信徒の集い」でお話することができなかった箇所を含め、その辺りも掘り下げたお話を
改めてさせて頂きます。
はじめにを皆さんに知って頂きたいことを話しますと、私は受洗し、信仰を持ち教会生活
を送る中で、大きく変化したことがあると皆さんにお伝えしたいです。多くの信徒の方々は
「クリスチャンになっても何もかわらないよ」と話しますが、私は「何を大切にし、自分は
どう立ちたいのか」という点において、明確に生き方が変わったと感じています。具体的に
話しますと、今より若い時の私は「どうすれば偉くなれるのか」、「お金をたくさん稼ぐには
どうしたら良いか」等、人よりも上に…という思考が自分の大半を占めていたと感じていま
す。そうした自分が、幼稚園教諭生活を通し改めてキリスト教と出会い、価値観が少しずつ
変化していきました。クリスチャンになった瞬間から価値観がガラッと変わったわけでは
ありませんん。受洗へと向かう中で、私自身の内面に変化が起こっていったということです。
しかし、変化があったからといって、私の全てが良くなったわけではありません。イエス
に出会った今もなお、自分勝手な視点で様々な人と関わり、向き合い、裁き、比べ、自分の
方が優れているのだと思っている瞬間は、今でもたくさんあります。特に夫婦関係を中心に
…です。そうした関わりを振り返りながら、とても自己嫌悪になります。その度、御言葉を
大切に…と思いながらも、それが出来ない自分に落ち込み、憤ることも多いです。それでも
私は、明確に生き方が変わったと思えるのです。
では、どうしてかと言いますと、先日の「北海道地区信徒の集い」の際、私の信仰告白で
お話しさせて頂いたことに私の思いが詰まっています。本日は、その内容を含めて話したい
と思います。
まず、先日の話の要約は、私の勤め先がルーテル幼稚園であること、幼稚園への就職をき
っかけに受洗へ進んだこと、また、私とキリスト教の出会いは、進学先の高校がミッション
スクールであったこと等を話しました。その話の中で、幼稚園で改めて出会ったキリスト教
は、大好きな教科であった頃から変わり、生活に身近になっていくとどんどん触れたくない
ものになっていたという話をしました。そこから、礼拝を欠席し、さらには遅刻することも
多かったという話をしました。そういった状況から受洗へ…となったわけですが、受洗へ至
った経緯は、決してスムーズではありませんでした。先日、以前の勤め先で挫折をしたと話
しましたが、それだけではありません。挫折した経験はキリストと出会うことで、救われる
ような気がします。(余計苦しむ場合もあるかもしれませんが…)
私は専門学生時代、短期間の内に複数の人と死別するという体験をしました。それは、当
時お付き合いしていた彼女の病死、共に生活し理解者であった祖母の病死、最後は両親の離
婚後生活を別にしていた父親の自害を知らされる等…大切な人との別れを経験しました。
この時の私にはこれらのことは堪えましたが、今思い返すと、友人にとても助けられました。
それは彼女の死に際し、今日もここにいる佐藤兄を含めた友人が総出で私を一人にしない
ようにと共に過ごしてくれ、お酒を飲んだり、温泉に入りに行ったり、馬鹿をして遊んだり
等…まるで神様が友だちを通し、共にいて下さったのかなと思えるような時間を友人達は
作ってくれました。本当に感謝でした。
こうした経験を引きずっていたのでしょうか。ありがたい状況とは逆に、私はさらに「自
分はできる」、「自分がやってやる」等、「自分が、自分が」という思いにこだわることが強
くなり、日々の生活を過ごしていました。そうした経験や、他法人での就職、退職を経て、
実習時代にお世話になり、私が幼稚園教諭を目指すきっかけをくれたルーテル幼稚園でご
縁があって働くことになりました。幼稚園で働くことができ、とても嬉しかったです。
しかし、言っても私はまだ社会人二年目でした。保育の仕事はわからないことが多く、失
敗することも多かったです。そして、先ほど話したように私は自分が正しいという思いがベ
ースにあったので、失敗から学ぶことがあまりできませんでした。色々教えて貰ってもそれ
を素直に受け止められない自分がいました。また、毎週やってくる日曜日の礼拝は億劫なも
のへと変わっていきました。粂井先生の説教は何を伝えているのかわからない、高校生の時
あれだけ大好きだったキリスト教も「わけのわからないもの」と自分で勝手に理解し、礼拝
の参加も怠惰な姿へと変わっていきました。
また、周りの人が亡くなってゆく中で、私は死に対して葛藤を抱えていました。ある時、
粂井先生に相談した際に頂いた返答も、明確に覚えていませんが、葛藤を解決するものでは
ありませんでした。今となってはそれで良かったと思えるのに、私はもっと解決策をと求め
ていたのだと思います。さらに、専門学生時代からの友人である佐藤孝洋兄が受洗し、私よ
りも先生方に気に入られているのではないか、という嫉妬心が芽生えていきました。こうし
た自分勝手さが、キリスト教やそれを取り巻く人々への不信感へと変わっていきました。今
振り返ると、この時の私には、自分の小さいプライドと、自分勝手さが溢れていたのかもし
れません。それらの解決策をキリスト教は私にくれるのだろうと思っていました。この自分
勝手な姿勢が一番の問題であることを、私はきちんと受け止めようとはしていませんでし
た。もう最低としか言いようのない日々で、誰にもこの思いを吐露したことはなく、その頑
な姿勢も問題だったと思います。
ここまで話すと、ここから受洗へ導かれていくことが想像しづらいと思いますが、話しを
続けます。
ある日、私は一冊の本を買って読むようになりました。それは、女子パウロ会が出版して
いる『マザー・テレサ ―日々のことば―』です。この本は一日毎に各ページに日付が記し
てあり、そこにマザー・テレサの言葉が書かれ、その日付のところを読んでいくという本で
す。当時の私には理解できないところはありましたが、日毎に書かれているマザー・テレサ
の言葉が自分の中に‘‘すとん’’と落ちるような感覚が何度もありました。この本が全てのき
っかけというわけではありませんが、この本や、日々関わる人との関係を通して、自分勝手
な自分を振り返りたい、変えたい…という思いが生まれてきました。
そうしたことは、日々の保育の仕事においても大切な姿勢だなと実感しています。子ども
と向き合う中、子どもを中心に自分はどう受け止め、関わったのかということを私なりに一
生懸命考えるようになりました。急に保育が上手になり、スーパー幼稚園教諭になったとい
う話ではなく、子どもや、幼稚園の先生方を関わる中で、私自身が周りの人に認められ、受
け止められ、支えられているのだということを少しずつ感じるようになりました。相変わら
ず、受洗については悩んでいました。しかし、主日礼拝の粂井先生の説教を通し、「ご利益
を下さるのが神ではない」、「神様が言っても出来ないのが人」、「そうした人達でも神様は守
って下さる」等という話をされていることを、少しずつ理解できるようになりました。その
辺りだったからでしょうか。「このような自分でも受洗できたら良いな…」という思いを持
つようになりました。
そうした実感がある最中、私の身内でトラブルが起きました。「本当、自分ばっかり何で
こんなに問題が多いんだよ…」という思いでした。しかし、今まではそうしたことを人に隠
していた自分でしたが、何故かこの時は当時主任であった桑瀬先生に話しました。皆さんも
ご存じの通り、桑瀬先生は聞き上手で、乗せ上手です。この時も話を受け止めて下さった上
で、「粂井先生に言ってみよう!」とだけ言い、保育が始まろうとしている中、出勤してき
た粂井先生を引き止め、私が話す機会をつくって下さいました。粂井先生も私の話を頷きな
がら聞いて下さいました。そうやって受け止めてくれるだけで、その時の私には安心感があ
りました。そして、桑瀬先生の勢いそのまま「先生、大ちゃんも受洗しましょうか!」と言
い、勉強会を経てその年のクリスマスに洗礼を受けました。時に神様は、自分の方へ引き入
れるのに強引なことをするのだと実感しました。
以上が私の証しです。何度も言いますが、多くの皆さんが「クリスチャンになっても何も
かわらないよ」と、おっしゃるのは確かにそうなのかもしれません。しかし、お話しさせて
頂いたように少しずつ私の中で変化したものがあることは、お伝えできたかなと思います。
最後になりますが、私には大好きな聖書の箇所と、現在の心境等をお話しさせて頂き、証
しを終えたいと思います。
まず、大好きな箇所は『放蕩息子』です。これは父親と息子達の関係から、神様と人の関
係を述べているイエスのたとえ話として有名な箇所です。一度は他園で就職し、物理的に教
会から離れた自分、ルーテル幼稚園で勤めるようになっても、聖書を受け止められず日々葛
藤していた自分、それらを経て神様の元へと導かれた自分があり、自身の境遇と似ているの
で、とても好きです。最初、その箇所と出会った時、私がそのお父さんなら帰ってきた不届
き者の息子を引っ叩くな…と思いました。それを恥じらいもなく人に話したこともありま
す。しかし、お父さんは決して引っ叩いたりはしないのです。むしろ喜んで、しもべ達に「急
いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物を履かせ
なさい。そして肥えた仔牛食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくな
っていたのに見つかったのだから。」と言い、祝宴を始めるのです。聖書を読んでいると、
理解できない箇所がたくさんあります。この箇所は最初、本当に理解できませんでした。改
めて、自分を振り返りながら読んでいくと、ぐっとその世界に引き込まれ日々の自分の行動、
言動はどうなのだろうと考え、やはり神様に仕える生き方をしていきたいと思えるのです。
そう自分視点で話している辺りを考えると、まだまだ勉強不足ですが…。
もう一つ、私の現在の心境です。地区信徒の集いでも話したことなのですが、イエスに出
会ってもなお、様々なことに対し、気持ちや視点を向けた当事者意識が低いと感じています。
イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と呼び
かけます。しかし、いつまでたっても私にはそれが出来ません。特に夫婦関係においては、
私のごくごく身近な方に及ばないまでも、悩みます。また、友人同士、日々関わっている子
どもや保護者、同僚等に対しても、イエスの言うように関われていません。また、様々な事
柄への関心、理解等々…本当に自分の都合の良いように聖書を理解し、聖書を利用し、神様
の言葉から離れた行いをし、わがままに自分視点で物事を考え、行動している自分がいるこ
とを気づかされます。
これは教会生活でも同じです。共に歩んでいる信徒の方々への関心、配慮が至らないなと
思いますし、中央教会の現状、今後の動向の一旦に自分も存在しているのだという認識、さ
らには道内各教会への関心・理解等、共に生活し私もそこに関わっている一人なのだという、
意識がとても低く、自分勝手に物事、人を捉え、過ごしている自分に気付かされます。そう
した意識や認識、態度、思いが自分にあることを素直に認め、聖書が語る神様の御言葉を通
し、絶えず自分のことを振り返っていきたいです。そして、神様が様々な人を通して私に示
して下さったように、友人達が私と共にいてくれたように、様々な人との関わりに思いを寄
せ、皆様と共に歩んでいきたいと思います。
これが私の証しです