202424日 主のエルサレム入城

          マルコ福音書11章1~11節 「 渇望 」 

11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。

我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 今日は主のエルサレム入城、という主日です。復活の一週間前に起こった出来事です。今日から受難週に入ります。今日の聖書の場面は明るい場面です。救い主、あるいはユダヤ人の新しい王として期待されていたイエスさまが、過越の祭りのために首都エルサレムに入ってきます。王さまのための宮殿、神さまのための神殿がある街です。そこで、過越しの祭りに向かう人たちに、ホサナ、ホサナ、と言って迎えられます。いよいよ、王になるのか、そういう期待が高まったのだと思います。それも、勝手に周りが盛り上がったというより、イエス様自身がゼカリヤ書9章の9節に記されている、子ロバに乗った勝利者の凱旋のように、自ら王さま然りとして、エルサレムに向かっています。しかも、エルサレムに入り、神殿を覗いた後、また、ベタニアに引き返したと書かれています。おそらくは、このデモンストレーションをするために、いったんエルサレムに来られたのだと思います。イエスさまが、期待され、賛美されて迎えられる華やかな場面ですが、私たちは素直に華やかな思いになれません。この五日後に十字架にかけられることを知っているからです。ホサナ、ホサナ、と言っていた人たちが、十字架にかけろ、という叫びに変わっていくことを知っています。なぜ、いつかでこんなにも変わってしまうのだろう、と思います。
 イエスさまが十字架にかけられたときの罪状は、偽メシア、偽ユダヤ人の王でした。おそらくユダヤ人には、自分が思い描いていた救世主、メシア像があったのでしょう。多くの人が、ダビデのように戦いが強く、イスラエルをローマ帝国から独立させてくれるような、そんな新しい王さま、そんな救世主を期待していた。しかし、イエスさまはそんな方ではありません。ゼカリヤ書で、子ロバに乗った勝利者は、平和の王であり、戦いを終わらせる王として描かれています。ユダヤ人は、期待が大きかった分、強く裏切られたような思いを持ったのかもしれません。
 それは私たちの姿でもあります。私たちは、人に期待して、期待と違えば、勝手に裏切られたような思いになり、相手を恨んだりします。それは親や、パートナー、上司や部下、友人、勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になる。アイドルや憧れの人も、勝手に自分で像を作って、そこからはみ出ると、裏切られたような思いになる。
 何よりも、私達もこのユダヤ人と一緒で、イエスさまに対して、神さまに対して、こうあるべきだ、という思いが潜んでいる。祈りが聞かれないと、神さまを恨んだりします。
 他のものはともかく、イエスさまは、ホサナ、ホサナと叫んでいるこの人たちが、勝手に期待して、勝手に裏切られたような思いになり、十字架にかけようとすることを知っています。なのになぜ、自ら、王さま然りとして、このような入城の仕方をするのだろうと思います。
 私たちは勝手に期待して、勝手に裏切られる。そんなことを繰り返しています。イエスさまに対してもです。しかし、少なくとも、イエスさまに対しては、間違った期待をかけてもよいのだと思います。あなたが救い主を求める、その渇望は、間違いではないからです。自分が求める救いと、神さまが差し出す救いは、同じではないでしょう。あなたは、何度か傷つくかもしれない。でも、そんなことを繰り返しながら、ユダヤ人の何人かは、イエスさまこそが本当の救い主で、自分が求める救いより、イエスさまが差し出す救いの手のほうが、よいものかもしれないと感じ始めていきます。一度は裏切られた思いになり、十字架にかけた後に、この人は本当に救い主だった、と気づいていくものが出てきます。
 だから間違ってもいい、救い主を求めなさい。間違った期待をしてもいい、救いを求めなさい。イエスさまが差し出す救いが、どんなに良いものであったかを、後で知ることもあるでしょう。それで、全然かまわないと聖書は教えます。
 ずれててもいい、間違っててもいい、救い主を求めましょう。イエスさまは受けて立ってくれます。あなたに向かって入城してくれます。


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