202425日 復活節第5主日

          ヨハネ福音書15章1~8節 「 罪人を愛す 」 

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

  「ハブられても生き残るための深層心理学」という本があります。精神科医の北山修という人が書いた本なのですが、気づいた方もいるかもしれませんが、帰ってきたヨッパライという歌を歌っていた、フォーククルセーダーズというバンドだった人です。この中で、日本の神話や昔話を分析しています。夕鶴、鶴の恩返しとか、蛇女房などの異類婚姻説話と呼ばれるもので、異なる類のものが結婚する話です。日本の物語は、異物のほうが去っていく話が多い。自分さえいなければ、丸く収まる。自分が去れば、この騒動はおさまる、日本人にはそのような深層心理があり、そのような行動をとりがちだ、ということです。もちろん日本人ばかりではありませんが。それに比較してあげられているのが、カエルの王様、という話と、美女と野獣という話です。この話は、異物が去らない話です。そして、それは本当は異物ではなかった、という話です。人は特に、危機的な状況になると、同調圧力が高まり、異物を吐き出して気持ちよくなりたい、という思いが出るそうです。そのために吐き出すターゲットを探したりする。関東大震災の時、戦時中の日本も非国民を探して、ターゲットにする。記憶に新しいところでは、コロナ中の自粛警察なんて言うのもありました。本当は悪くないのに、ターゲットにされる可能性は、全員あるといいます。カエルと王様、美女と野獣は、カエルも野獣も去らなかった。そしたら、カエルでも野獣でもなく、普通の人間であることが分かった。北山さんは、この文化の違いは、キリスト教の影響があるかもしれない、そう書いています。
 ターゲットにされたとき、自分は異物ではなく、吐き出したいターゲットを探して異物にされているだけなんだと、気づいているだけで、少し楽になると北山さんは言います。加えて、煽る第三者から、自分に向き合ってくれる第二者が重要だといいます。夕鶴でいえば夫の与ひょう、美女と野獣でいえばラ・ベルという女性です。学校でいえば、学校の先生といいたいところですが、そうでもない場合もあるといいます。それよりも保健室の先生やスクールカウンセラー、外部の医者、外部の人などでもいいといいます。
  イエスさまはまさに、異物にされて排除された方です。罪を犯していないのに、スケープゴートにされ十字架にかけられた方です。ただ、イエスさまは、あなたにとって、他の人が異物呼ばわりしても、必ず味方し続け、あなたの本当の理解者である、という存在ではありません。そうではなく、イエスさまは、あなたが本物の異物であったとしても、本当の罪人であったとしても、赦し続け、愛し続けてくれる方なんです。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 この個所は最後の晩餐の場面です。この直後に十字架の出来事が起こり、弟子たちは裏切り、逃げていきます。その弟子にイエスさまは言います。私に繋がっていなさい、と。イエスさまは、あなたが本当に罪を犯しても、本当に裏切っても、あなたが本物の異物であったとしても、愛し続けてくれる方です。自分がいなくなれば丸くおさまる、そんな風に思う必要はありません。私はまことのブドウの木、私に繋がっていなさい、私の愛にとどまりなさい、とイエスさまは語り掛けています。


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