202412日 主の昇天

          ルカ福音書24章44~53節 「 あなたを祝福する 」 

24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

  わたしが神学校に行ったのは、25歳になってすぐでしたが、その前の24歳の時の一年間は、何物でもない、空白の一年でした。最初農家に住み込みでバイトをしていました。3月終わりから、5月くらいまで。当時の普通のバイトの求人誌に載っていて応募しました。あとでわかったのですが、人手が必要な春の作付けの時期と秋の収穫の時期に求人が出ていたようでした。。春のバイトの期間が終わる時、全員ではないようですが、この子雇ってよかったと思った人には、秋にも来ないかと声がかけられます。幸い、私も秋の収穫の時期にもう一度来ないかと誘われました。実際には、牧師になろうと思うという話をしたら、農家の方ではなく、息子さんの家庭教師になって、話し相手になってほしい、という話になり、家庭教師のバイトをすることになりました。ただ、秋にも働かないかと声をかけられたのは、とても嬉しかったことをよく覚えています。
 来週はペンテコステ、聖霊降臨祭です。今日は昇天主日、復活節の最後の主日です。死者の復活は、イエスさまの前に、福音書の中に2度か3度起こっています。多少曖昧なのは、会堂長ヤイロの娘は、死んだという報告を受けますが、イエスさまは死んだのではなく眠っているのだと言って、その娘を生き返らせます。そのほかやもめの息子やラザロが死んでいたのに生き返ります。ただ、イエスさまの復活と違うのは、この三人は再び死んでいるということです。今日の出来事、イエスさまの昇天は、復活したイエスさまが死なずに見えない姿になり、今も神の右に座して生きておられる、ということを意味しています。
 私たちの信仰は、私たち自身も一度この朽ちる体を脱ぎ捨てる、つまり死ななければなりませんが、イエスさまと同様に新しい命、朽ちない体を与えられ、永遠の命が与えられることを信じています。ただ、実際に私も死んだことがないので、具体的にどのようになるかは語ることができません。私が伝えられるのは、イエスさまならびに、聖書は信頼に値するものであることです。
 ルーテル教会ではとりわけ強調されますが、この救いは人間の働き、人間の意志によって起こるのではなく、神さまの恵み、神さまの意志、神の愛によって起こると信じています。私が神さまを選ぶ前に、まず神さまが私たちを選んで、導きを与えてくれたことを信じています。
 弟子たちが目にした、イエスさまの最後の姿は、弟子たちを、そして、この世界を祝福する姿でした。祝福しながら、天に挙げられた、そう書かれています。祝福とは、その存在自体を愛でることです。
 時々ファンの人が、推しの人本人に出会う場面で、「生まれてきてくれたありがとうございます。」「存在してくれてありがとうございます。」という言葉を聞くことがあります。
 もし神さまが私たちを選び出して、信仰を与え、復活の約束を与えてくれたとすれば、それは私たちが神さまから、「あなたを造ってよかった」「再び存在してほしい」そう思ってくれている証しだと思います。
 農家での春のバイトが終わって、秋にも来てほしい、と言われたときは嬉しかったです。あなたを雇ってよかった、また共に働いてほしい、と思ってくれたからです。イエスさまからの復活の約束も同じです。あなたが存在してくれてうれしい。死んでも、再び存在し続けてほしい、そういう神さまの意志の表れだからです。今週も神さまの祝福を受けて、新しい一週間を歩み出しましょう。


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