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2024年5月19日 聖霊降臨 |
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| ヨハネ福音書15章26・27 16章4~15節 「 後悔の果てに 」 | |
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15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。 16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 |
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| 柄谷行人という人がいます。日本の思想の最前線といった人です。その人が書いた「憲法の無意識」という本があります。憲法9条はおそらく改正できないし、もちろんするべきではない、という主張の本です。憲法9条の考え方のもとになってるのは、国連の国連憲章なんですけど、さらにそのもとになっているのは、カントという人が書いた「永遠平和のために」という本なんです。カントという人は、理想家のように語られることもありますが、実際には現実的な人で、人間は実際にたくさんの失敗をして後悔してからではないと、この永遠平和という考えにはたどり着かないと他の本で書いてあるそうです。カントの「永遠平和」にスポットが当たったのは、その本が書かれて100年以上たった、世界大戦後です。 日本で、憲法9条が改正できないのは、この第2次世界大戦を後悔しただけではなく、その前に戦国時代を経験した。応仁の乱を経験し、もうこのようなことを繰り返さないように、徳川体制ができた。刀狩をし、武士をお役人のような役割にした。後悔が歴史に刻まれ、文化に刻まれているといいます。もちろん人間のやることですから、いつだって不十分で、また日本は世界を相手に戦争をします。国連を作っても、戦争は起こります。柄谷さんは本当の平和を作るために日本のできることとして、少し過激だな、と思うのですが、憲法9条通り、本当に軍隊を持たないことだ、と書いてあります。その説明には、イエスさまの教えが引用されています。右のほほを打たれたら、左のほほを出しなさい。本当に無抵抗なものを、人は攻められない、という考え方です。大丈夫かな、とも思うのですが。でも、アフガニスタンに行った中村哲さんも同じように考え国会でそのことを主張し、アフガニスタンでは丸腰で過ごした人です。ただ、中村哲さんは、最後殺されています。非暴力のガンジーやキング牧師も殺されています。だから、決して本当に大丈夫とは言えませんけど、中村さんも、ガンジーも、キング牧師も、その生涯が人類史の一つとして語り継がれている人です。 今日の福音書の箇所は、最後の晩餐の席で、自分が十字架にかけられることを弟子たちに語っていきます。しかし、それは、あなた方のためになる、といいます。私が去らなければ、弁護者とも呼ばれる真理の霊があなた方のところに来ないといいます。人は失敗をして後悔しなければ、気づけないことがあります。しかし、失敗をした後、父なる神は弁護者を与えてくれるといいます。弁護者と訳されていますが、他にも「慰める者」、「そばにいる者」という意味があります。 人は神さまから与えられた助け主を、自らの手で傷つけ、去らせてしまうことがあります。やった後に、ひどく後悔をすることがあります。イエスさまは、後悔先に立たずとは言いません。後悔すればいい。弁護者、慰めるものを送り出すといいます。 聖書には、生まれ変わりという考え方が、少しあります。輪廻転生とは違いますが、洗礼者ヨハネは、エリヤの霊を引き継ぐもの。ヨハネ自身は否定していますが、イエスさまはそう断言しています。イエス様自身も信仰告白の場面で、世の人は私を何者だと言っているか、と尋ねると弟子たちは、エリヤだ、洗礼者ヨハネだ、あの預言者だ、と語っています。ダビデの子ともいわれています。 今日の箇所で、イエスさまは、私が去らなければ、真理の霊は来ないといいます。去らなければ、霊の引継ぎはできない、という意味でしょう。そして、実際にイエスさまは復活した後昇天し、その後に聖霊が注がれて、教会が始まっていきます。教会は、イエス・キリスト者は霊が引き継がれるために選ばれたものです。愛の救い主を十字架にかけて殺したことの後ろめたさと、それでもなお復活の主が再度与えられ、赦され、慰められ、励まされた使徒たちの思いを引き継ぐものです。 わたしたちは弱い罪人ですが、赦されたものであり、慰められたものであり、なお愛されたものです。それと同時に、赦す力、慰める力、愛する力を引き継ぎ、授かっているものでもあります。聖霊を受けて、歩み出しましょう。 |