2024日 聖霊降臨後第3主日

                  マルコ福音書2章23~3章6節 「 安らぐ日 」 

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

  最近教団の仕事や大学の理事の仕事で、東京に出張して帰ってくると、幼稚園から言われることがあります。有給休暇の申請書を出してください、と。いや出張で幼稚園は休んだけど、休暇を取ったわけではないんだけどな、と思います。でも、今は有休をちゃんと消化しなければいけません。本人が必要ないと言っても、有給はある程度消化しなければならない。おかしなルールのような気もしますが、それでもやはりとても意味のあるルールであると思っています。以前は、有給制度はあっても、取りずらい雰囲気が日本にはありました。残業も含めて日本人は、働きすぎだったと思います。自分の存在の意味を認めてほしい、そんな焦燥感があったのかもしれません。強制してでも有休をとる、そういう時期が日本には必要であると思います。

今日の聖書の箇所では、安息日が問題になっています。最初は弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んだら、律法を厳格に守るファリサイ派の人たちに注意されます。次にはイエス様自身が、安息日に会堂に入ると手の萎えた人がいる。ファリサイ派やほかの人々も、安息日にイエスさまが癒しを行うのではないかと、注目します。イエスさまは手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせて手の萎えた人を癒します。それを見て、ファリサイ派の人とヘロデ派の人は、イエスを殺そうと相談し始めたと書かれています。
 イエスさまと対立し、最終的に十字架にかけたのは、不信仰なものではなく、ファリサイ派のような、ある意味敬虔なユダヤ教徒でした。どこが違っていたのか。十戒などの律法の教えの土台には、神さまへの愛と、隣人への愛がなければいけないとイエスさまは教えました。殺してもいない、姦淫してもいない、嘘もついていない、でも、それだけでは足りない、自分を愛するように隣人を愛しなさいといいます。偶像も崇拝していない、主の名をみだりに唱えてもいない、でもそれでは足りません。心を尽くして神を愛しなさい、とイエスさまは教えます。
 では、この安息日の規定には、どんな愛の土台があるのか。十戒は出エジプト記と申命記に書かれています。今日の第一日課は、申命記です。

 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

  あなたが休めば、あなたのために働いている人を休ませることができると書かれています。それに続く箇所では、あなたはエジプトにいたときには奴隷だった。あなた方は奴隷から解放された。だから、奴隷を休ませなさい、と書かれています。出エジプト記の十戒では、少し違う理由が書かれています。出エジプト記では、神さまがこの世界を六日で造り、七日目は休まれたから、休めと書かれています。神さまも休んだのだから休みなさい、そして神さまを思い出し、神さまがこの世界を創られたことを思い出しなさい、そんな意味が込められているといわれています。私たちはこの宇宙に比べ、ほんのちっぽけな存在です。そう思えると、自分の悩みなど、小さなものであると感じることもできます。
 今日の福音書の箇所では2章の27節で、

 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。

  本来安息日は、神さまがこの小さな存在である人間のことを思って造ってくれたもの。神さまが命じなければ、人は自ら休めないものでもあります。休みなさい、安らぎなさい、と命じてくれます。安息日は神さまが人を愛して作ってくれたもの。本当の安息、本当の安らぎは、自分以上に、自分のことを考えてくれている大きな存在を感じる時に与えられます。にもかかわらず、人は恵みによって与えられたものを、いつしか人を縛るものに変えてしまいます。安息日は仕事をしてはいけない日ではなく、神さまの大きな愛のもとで安らぐ日です。神さまに癒され、萎えた心に力を与えてもらう日です。神さまの赦しと愛を受けて今日は安らぎ、明日から新しい一週間を歩み出しましょう。


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