202423日 聖霊降臨後第5主日

                  マルコ福音書4章35~41節 「 小さくされて 」 

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

  今日の福音書の箇所は、弟子たちとイエスさまを乗せた船で湖の向こう岸へ渡ろうとしたときの話です。弟子のうちの少なくとも4人は、この湖で漁師をしていました。向こう岸へ渡ることは、朝飯前のことでしょう。しかし、どんな得意なものでも、突風が吹いたり、波をかぶったりすれば前に進めず、その船は沈みそうになります。イエスさまは、ともに船の中にいますが、眠っていて助けてくれません。弟子たちは、明らかに腹を立てています。  

 先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。

 私達も似たような思いになることがあります。自分のどんな得意なことであっても、今まではできてきたことであっても、突風が吹く、逆風が吹く、荒波をかぶる、前に進めなくなり、船が沈みそうになる。それなのに、神さまはちっとも助けてくれない、そう感じることがあります。
 そういわれたイエスさまは、起き上がって風を叱ると、風はすっかりやんだといいます。他の物語であれば、良かった、良かったという話になりそうですが、聖書はそうなりません。弟子たちは、非常に恐れた、そう書かれています。この方はどなたなのだろう、と言い合ったといいます。イエスさまに、神そのものの存在感を感じたといわれています。聖書に出会う前、神さまというのはやさしい方だと思っていました。実際に聖書にも、神は愛であり、憐み深い、と書いてあります。しかし、それだけではありません。聖書で神の存在を感じる時、必ず恐れの感情が伴います。それはおそらく、神さまという存在の圧倒的な大きさと、それと同時に、自分という存在の圧倒的な小ささを思い知らされるからでしょう。
 「あした死ぬ幸福の王子」という本があります。物語で、ハイデガーの哲学を学ぶ本です。ある王子がサソリに刺され、医者に診てもらうと、いつ死んでもおかしくない状態で、少なくとも一か月以内には死ぬ、と言われます。絶望的な気持ちで、自殺しようとするところで、ハイデガーの哲学をよく知る老人と出会い、対話を始める、という話です。ハイデガーの哲学では、人は自分が死ぬ存在であると自覚して、本物の人間になっていくといいます。人は自分の時間には限りがある、そのことを自覚して、人生を大事にしようとし始める。世間の求めに合わせた生き方から、自分が本当に何になりたいのかを問い始めるようになるといいます。更に人は、死を自覚して、良心が芽生え、罪の自覚が与えられるといいます。その辺、よく分からないというか、飛躍がある気もするんですが、王子はなんとなく分かるんです。自分は王子で、ちやほやされ、偉いんだと思っていたけど、死を前にすると無力な存在だと自覚し始める。王子だから何でも許されると思っていたけど、無力なひとりの人間になってみると、今までの自分の傍若無人な態度を恥ずかしく思うようになる。王子は、庶民の生活を初めて見て、思っている以上に貧しい、生活をしていることに気づく。町の中で、かつて王の領地に食べ物を探して入ってきた女性がいて、王子が見つけて顔を蹴り飛ばした人と再会します。その女性は目が見えなくなっていて、しかも、体調も崩している。王子は、胸を痛めて、すぐに医者を呼んできますが、医者はもう治せないといいます。王子は、自分が王子であることを隠して、一人の金持ちとして、その女性の世話を毎日しに行きます。世話をしながら、その女性にとても感謝され、交流が生まれていく。お互いに、限られた命ですが、お互いの存在をかけがえのない存在として、大事に思い合っていき、二人は死にます。
 王子が死んだあと高い台にのせられた、幸福の王子という像が作られます。そこに燕がやってきたとき、幸福の王子から話しかけられます。病気をしている子どもの母親に、私の目を上げてほしい、私の目はサファイアだから。燕は、南に渡らなければならないが、今日一日はあなたにつきあうと言って、その親子にサファイアを届けてくれる。翌日、王子はもう一つだけお願いを聞いてほしいと、燕に願います。売り物のマッチを落としてしまった女の子に、もう一つの目を与えてほしいと。燕はそれにつきあい、目の見えなくなった王子の代わりの町の様子を伝える。すると、貧しい子供たちがたくさんいることが分かり、自分の体にある金メッキを与えてほしいと願う。燕はそれに応えます。そのうち、王子の像はボロボロになり、やがて崩れ落ちます。冬が来ても南に渡らなかった燕も死んでいきます。その様子を見た神さまは天使に言います。燕の死骸と崩れ落ちた幸福の王子、これがこの世界で一番美しいものだと。
 人は試練には会いたくありませんが、どこかで自分の小ささを知った方が良い。自分の傲慢さにも気づきますし、この限られた時を大事にしようとします。限られた時の中で、人との出会いが、貴重なものであることにも気づきます。小さなもの同士であることが自覚できると、助け合おうとしますし、大切にしようとします。
 神さまは助けられないのではなく、意図的に助けないことがあります。なんでも助けてくれるのではなく、必要な時には試練も与えられます。でも、共にいてくださいます。試練に出会い、自分の小ささを知ることで、人生観を変えられることがあります。時に波をかぶりながらも、神さまが共にいることを信じて、舟を漕ぎ続けましょう。


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