2024日 聖霊降臨後第7主日

                  マルコ福音書6章1~13節 「 人間の罪深さ 」 

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

   今日の箇所で、イエスさまは自分が育ったナザレに行きます。最初地元の人達はイエスさまの教え、そのわざに素直に驚きます。しかし、すぐにイエスさまを落とす。大工のせがれじゃないか、よく知っている、マリアの息子、あいつらの兄弟じゃないか。人々はイエスにつまずいたと書かれています。預言者が敬われないのは、故郷と親戚の間だけだと書かれています。人は、昔の人や遠くにいる人だと素直に尊敬し、良さを認めることができます。しかし、身近な人を尊敬するのは難しい。嫉妬するし、悔しいし、条件が近いので、自分が劣っていることの言い訳がしにくい。だから、悪い面、自分と変わらない面をすぐに探してしまいます。身近な人への嫉妬はカインとアベルの時から始まる、人間の根深い罪です。
 数年前にハラリという人が書いた「サピエンス全史」いう本が世界中でベストセラーになりました。その次に出された本で、「ホモ・デウス」という本が出され、こんなことが書かれていました。

 ところが、三千年期の夜明けに人類が目覚めてみると、驚くべき状況になっていた。ほとんどの人は、こんなことはめったに考えないだろうが、この数十年というもの、私たちは、飢餓と疫病と戦争を首尾よく抑え込んできた。

全部は解決できてはいないが、制御可能だと書かれた後、

この三つから救われるように、神や聖人に祈る必要はなくなった。

 そう書かれています。この本が発売されたのは、2018年9月です。この本の発売の1,2年後に、コロナが世界中に流行し、ウクライナで戦争が起こります。分析は見事に外れていきます。ハラリという人が特別傲慢な人ではなく、ほんの数年前まで人類全体にそんな雰囲気がありました。でも今はどうでしょう。今日は都知事選の投票日だそうです。個人的な感想ですが、私が今まで見てきた選挙の中で、人間の醜悪さが表に出た最悪の選挙戦でした。人間の欲深さが見え、脅迫や脅しなどもあったといいます。社会の底が抜けた、という見出しを見ました。
 人はもう一度、神さまの前に立ち人間が罪深いものであることを思い出さなければいけません。人間の問題を人間の理性でうまくコントロールできるのか、真剣に問い直さなければいけません。
 今日の箇所の後半では弟子たちを派遣しています。何をさせたかというと、12節に、悔い改めさせるために宣教したと書かれています。その際に、何も持って行かないように指示しています。むしろ、何も持っていなくても、宣教できることを伝えるためではないかと思わされます。もう一度神さまの前で、人は自分たちの罪深さを見つめなおし、悔い改めることを伝えなければなりません。
 福音書の終わりで、弟子たちは再びイエスさまに派遣されます。その間に教え込まれたことは、自分自身も悔い改めが常に必要な弱い罪人だということです。十字架の時には、逃げていった弟子、裏切っていった弟子です。それでも、救い主の愛と赦しの中で、自分の弱さ罪深さと向き合い、常に悔い改めていくことをイエスさまは教え続けます。
 人は神さまの前に立たずに、祈ることもせずに、自分たちを制御できるほど、強く賢いものなのでしょうか。誘惑から導き出して、悪からお救いください、そう祈らなくても自分の理性で、自分の罪を抑え込むことができるのでしょうか。聖なる者、大いなるもの前に畏れを持ち、自らを見つめ、悔い改め、祈ることなしに、正しく歩めるものなのでしょうか。神さまは、人が悔い改める機会、再出発の機会を作り、勧めてくれているのに、それを無視して人は自分で何とかしようとします。でも、神さまはそれでも手を差し伸べるために、弟子たちを派遣してくれています。人に悔い改めを宣べ伝える時、私たちが忘れてはならないことは、自分は正しいことを知っている人間で、人を正しさに導いてあげる、という姿勢ではなく、自分自身も今も弱く罪深い人間で、共に悔い改め続けようと呼びかける人間だということです。
 まずは、私たちから、神さまの前に立ち、懺悔から始まる礼拝をし、赦され、愛され、祝福されて派遣される、この場所から始めていきましょう。


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