202414日 聖霊降臨後第8主日

                  マルコ福音書6章14~29節 「 人間の罪深さ 」 

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

  今日の福音書の箇所は、ヘロデ王の話です。クリスマスのときに出てくるヘロデ王は、このヘロデ王の父親で、ヘロデ大王と呼ばれています。今日出てくるヘロデはその息子の、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる人です。ヘロデ家というのは、ずいぶん複雑なようで、ヘロデ大王は、兄弟や妻も殺したといわれています。この息子のヘロデ・アンティパスも、自分の兄弟の妻を奪い、自分の妻にしたといいます。しかし、時の権力者であったこのヘロデを批判する人はいませんでした。
 聖書の神さまは、優しいお爺さん、といったイメージとは全然違う存在です。人を裁く神です。ノアの洪水をおこし、ソドムの町を滅ぼし、自分の選びだしたイスラエルをバビロンという敵を作って、滅ぼす神さまです。愛の神であると同時に、畏れを抱かせる神です。本当の意味で、神への畏れを抱いた人には、一つの力が与えられます。神さま以外のものを恐れなくなります。洗礼者ヨハネは、ヘロデの行動を批判しました。ヘロデは、この洗礼者ヨハネをとらえますが、ずっと処刑はせずにいました。とても興味深い理由ですが、20節に

 20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

 そう書かれています。ヨハネはヘロデのやったことを批判しましたが、それは単なる批判だけで終わるものではなかったのでしょう。それはおそらく、最終判決ではなく、悔い改めに導く批判であり、その人を生かすための批判であった。おそらく、愛を感じる批判であった。
 今は、批判に満ちた世界です。その多くが、自分が安全な場所にいながら、相手を叩き潰すためになされる批判です。この批判は、多少自分がすっきりする、といった効果はありますが、より良い世の中になっているとは、余り思えません。
 不思議な力を持った批判があります。それは、愛のある批判です。洗礼者ヨハネの批判は、少なからずヘロデに刺さります。結果的には、ヘロデの妻の意志で、洗礼者ヨハネは殺されます。しかし、ヨハネの言葉は、おそらく小骨のように、ヘロデに刺さり続けています。イエスさまが現れたとき、ヘロデはヨハネが生き返ったのだと言って、畏れを抱き始めます。このイエスさまも、ヘロデの手によってではありませんが、人類全体の思いによって、十字架にかけられて処刑されます。しかし、このイエスさまのコトバは、2000年の間、人類に刺さり続けています。愛のある批判には不思議な力があります。
 愛のある批判は、私たち罪人が使うときは、とても気を付けなくてはなりません。あなたのために言っているのだ、そんな愛を隠れ蓑にして、単なる叩き潰す批判をしているときがあるからです。私たちは常に、神さまの裁きの前に立ち続け、自分の中に愛があるかを顧みななければいけない罪人です。神さまの裁きをいたずらにお知れる必要はありません。神さまの裁きには、あなたへの愛が潜んでいます。裁いて終わるのではなく、悔い改めに導き、あなたを生かすためものです。
 愛のある批判しか届かない時があります。愛のある批判は、すぐに聞かれなくても、後で聞かれることがあります。
 まずは、神さまの愛のある裁きの前に立ち続け、懺悔をし、赦されながら悔い改めることです。
 自分が批判しても、届かないのなら、自分の批判の中に愛があるかどうかを確かめてみることです。神さまの前に立ちながら、神さまと共に愛の批判をすることができたならば、それがいつか届くことを信じることです。すぐに聞かれなくても、いつか聞かれることを信じることです。愛の力を信じて、神さまと共に歩みましょう。


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