202429日 聖霊降臨後第19主日

                  マルコ福音書9章38~50節 「 塩の働きのように 」 

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 9:44 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 9:46 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。 9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

  今日の礼拝で与えられた福音書のみ言葉は、先週与えられた御言葉からの続きです。イエスさまが弟子たちに「すべての人に仕える者になりなさい。私を受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」と、お話しになった時です。弟子のヨハネが、「イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している者を見たので、自分達に従うようにと言ったのに、従わないので,やめさせようとしました。」とイエスさまに伝えました。弟子たちは、自分達が12弟子として選ばれた時、イエスさまに悪霊を追い出す権能を与えられていました(315)。そして、その権能をもつ身として宣教へと派遣されていました(67)。ヨハネは、イエスさまの名前を使っている人が、権能を与えられている自分達に従わないので、自分達に従わせることができるようにイエスさまに助けを求めたのでしょうか。それとも、イエスさまの名前を勝手に使っている人をいさめた自分達を褒めてもらおうと思ったのでしょうか。どのような思いを持って、このことをイエスさまに伝えようとしたのか分かりません。いずれにしても、ヨハネのやめさせようとした行為には、自分達にはイエスさまに選ばれ権能を与えられているとの自負があったと思います。自負心と同時に自分が行ったこと行動は正しいと思っていたと思います。ところが、イエスさまは、そのヨハネに冷や水を浴びせるかのように「やめさせてはならない。」と言われたのです。驚きです。いいえ、ヨハネにとっては、驚きではなく不満ではないでしょうか。私たちが、ヨハネの身になってみれば、「どうして?」と言いたくなる状況です。不満や疑問を覚えたであろうヨハネの心を見透かさんばかりに、イエスさまは「やめさせてはならない。」の言葉に続いて、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と言われたのです。それでも、ヨハネをはじめ他の弟子たちもピンと来てないと思われたのでしょうか。さらに厳しいことを言われます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」という言葉です。大きな石臼を首にかけて海に投げ込まれてしまう状況を想像して見てください。言いようもない苦しさです。私たちは、30秒でも潜ると息苦しくなってきて、もがきあがろうとするのに、その私に大きな石臼が首にかけられるのです。想像を超える表現だと思うのですが、その苦しさは地獄の中に置かれているよりもまだましだと言われるのです。さらに、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」その次には、「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。」や「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と。次から次と、いずれも想像を超えるほどの痛みや苦しみを覚える言葉が続けられながら、地獄の世界に置かれるよりもその苦しみや痛みの方がまだましだと言われるのです。42節の言葉は、他人をつまずかせることの問題指摘です。そして、43節~47節は自分をつまずかせることの問題指摘ですが、いずれにしても、終末の審判が警告されている言葉です。非常に厳しい言葉です。けれど、この厳しい審判思想の言葉は私たちを脅迫する言葉ではありません。昔、私は「悪いことをしたら地獄に落ちるぞ」ということばに恐れ、悪いことをしないようにと努力したことがあります。しかし努力すればするほど、さらに脅迫観念に襲われるのです。そんな中で、イエスさまの福音に出会いました。今、読んでいるマルコの福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まっています。聖書は、イエス・キリストが私たちの罪という私の問題を引き受けてくださり、裁かれざるを得ない問題だらけの私の身代わりとなって十字架にかかってくださったために、もはや、私たちは裁かれることない恵みの中で、日々、新しい生き方へと導きつづけられているという福音(喜びのたより)から読み聞いていくのです。時々、そのことを見失って、教会によっては、脅迫するような言葉から、イエスさまへ導こうとしますが、それは違っています。では、今日のこの厳しい言葉をどのように聞き取っていけばよいのでしょうか。

イエスさまがこの言葉を語られたのは、誰が一番偉いかと議論していた時に「すべての人に仕える者になりなさい。私を受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」と教えたにもかかわらず、そのことを理解していないヨハネをはじめ、ヨハネとの対話に耳を傾けていた弟子たち語られているとして聞くことが大切です。イエスさまは、弟子たちに自分に従って歩む道は「すべての人に仕える」ことが最も大事であると、身をもって教えておられていました。けれど、ヨハネをはじめ、弟子たちは自分たちに従わない人の問題にこだわる不寛容と狭量による排他主義的な問題に陥っていたのです。イエスさまは、弟子たちをはじめ、すべての人は、人をつまずかせてしまう裁かれざるを得ない者であり、その者が滅びの苦しみの中に置かれないように十字架にかかっていくことを示そうとしていました。しかし、イエスさまの心を弟子たちは理解しませんでした。弟子たちが理解したのは、イエスさまが十字架にかけられ死んで復活した主と出会ってからでした。このマルコの福音書は、十字架上で亡くなり三日後に復活され天に昇られた30年後にまとめられたものです。弟子たちは、イエスさまと共に生きて歩んでいる時には理解していなかった問題点を改めて思い直しながら、イエスさまが託されて進む歩みの中で「自分自身の内に塩を持ちなさい」と言われたことを繰り返し思い起こしたに違いないと思います。塩というのは、味付けだけでなく、人間の身体にもとても大切なものです。味付け一つを考えてみても、塩の味がなければ、物足りなく、また、塩の味が濃いようであれば、しょっぱくて食べられません。そのように、人が生きるのは、塩のように仕えて歩むことの大切さをしているかどうか、弟子たちは、イエスさまの言葉を聞いていたのです。私たちも同じです。私たちもヨハネのように、自分の心が主となって、人と関わり、塩のように仕えることを忘れ、不寛容になり、また、それ以上に、自分が考える方に固執し、その視点からの義憤に陥り、相手と共に生きる生き方を見失い、相手を責める裁きの中に陥ってしまいます。イエスさまは、塩のようになれとおっしゃられたのではありません。イエスさまが山上の丘でお話をなさった時、「あなたがたは地の塩である」といわれたように、塩のようになるのでは、ありません。すでに塩としての力があるのです。その塩の働きをなくするのは、自分のさまざまな問題に気づかない時です。十字架上のイエスさまを見上げながら、自分の問題のためにイエスさまは十字架にかかってくださっていることを見つめる時、私たちは、塩としての働きへと押し出されていくのです。


トップ