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2024年10月6日 聖霊降臨後第20主日 |
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| マルコ福音書10章2~16節 「 弱さを抱えて 」 | |
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10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 |
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| 小学生のころ、社会の時間に、「基本的人権」について、教えられたとき、すごく不思議に思った事があります。人間は生まれながらに、健康で文化的な最低限の生活をする権利がある、って教えられました。そんなの生まれつき持っているの?と思った記憶があります。だって、マッドマックスや、北斗の拳みたいに、戦争後の荒廃した世界では、弱肉強食のような世界になっていたりするかもしれません。その時、だれに向かって基本的人権を守ってくれ、と訴えればよいのだろうと思います。 それ以降、健康保険の仕組みとか、生活保護の制度などを知って、私なりの考えができました。人間って、自分が調子のいい時は、実力主義がいいんじゃない、成果主義がいいんじゃない、なって思ったりする。でも、」人間どこでつまずくか分からない。急に病気になることもあるでしょう。思いがけない落とし穴に落ちて、人生が転落するかもしれません。でもそういう時でも、最低限の生活が保障されるように、少しずつ保険料を出し合って、少しずつ税金を出し合って、だれでも最低限の生活を保障してあげる、日本というのはそういう国にしましょう、っていう考えが日本の憲法には書かれているのだ、そう考えるようになりました。それは生まれた時から、家柄や性別も関係なく与えられるもの。でも、全ては個人の責任で、自分が病気一つしないのに、今病気の他人を保障してあげる必要はない。もし自分が病気になったら、自分で責任を持つ、という人が多かったりすると、健康保険制度を入れるのに、シックハックしている国もあったりします。自分って基本的に弱いよな、と思えるかどうかで、その辺は変わってくる。今は良くても、いつどうなるか、分からない、そんな思いがあるかどうかで変わっていきます。 でも、悪い意味で、権利主張ばかりする、という風に使われることもあります。 今日の聖書の箇所は、結婚離婚についての話と、子どもについての話です。この話は、今の時代と同じように考えることはできません。ファリサイ派の人がイエスさまに聞いたのは、夫が妻を離婚することは、律法に適っているか、そう尋ねています。この時代、離婚するかどうかを決められるのは、夫の側しかなかった。もう終わりましたけど、「虎に翼」を見ていると、旧憲法下では、日本も同じだったんだ、と思いました。イエスさまの時代は今よりも、女性が一人で生きていくのは大変な時代でした。その時代に、夫が気に入らなければ、あるいは他に好きな女性ができたら、妻を捨てることができるか、という問いです。ファリサイ派の人は、離縁状書いたらできる、と言っています。 後半の部分は、子どもが来ることを阻もうとした弟子を叱って、子どもたちを私のところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである、そう言って抱き上げて祝福する場面です。キリスト教保育の研修などでよく取り上げられる箇所です。研修の講師をしているとき、時々聞かれました。キリスト教保育はほかの保育とどこが違うんですか?と。その時はちょっと誇らしげに、日本に幼稚園がなかったころ、幼稚園を始めていったのが、教会幼稚園で元祖幼稚園です。だから一番プレーンな幼稚園で、特徴はありません。まあ、もう少し説明しますけど、簡単に言えばそう答えていました。幼児教育ばかりではありません。日本の中の女性教育も教会が先駆けていきました。 人は性別も家庭環境も能力も、自分で選び取り、勝ち取ってきたものではありません。たまたま与えられたものです。たまたま割と恵まれたと感じる人もいるでしょう。そうでないと感じる人もいるでしょう。今は恵まれていても、明日人生が転落するかもしれません。人は弱く、一人では生きられないものです。だから、助け合いの思いが大切になります。たまたま今が良いのも、色々なものが恵まれたからです。それはたまたまです。 今日の箇所でルターは、イエスさまは子どもを一つの模範にしているが、子どものすべてが良いわけじゃない、そのことは私たちも知っています。ただ、子どもに見習わなければならない部分がある、それは、自分が一人では生きられないことをよく知っていることだといいます。助けを求めて生きる、ということをよく知っていることです。 人権って、生まれながらの当然の権利、って一人で自己主張しても必ず得られるわけではありません。自分自身に弱さも、危うさもあることを認める者同士が、少しずつ力出し合って、今困難な人を助け、自分に困難が起こった時には助けてもらえる、そんな合意ができている社会で中れば、発生しないものです。権利主張するときの、基本姿勢は、弱さの中で助けを求める姿勢です。その時、あなたに与えられている当然の権利だと、周りの人から言われるものです。 神さまからの赦し、恵み、救いも同じです。権利主張するようなものではありあません。自分では自分を救うことのできない無力なものとして、弱さの中で助けを求めるのが本来の信仰の姿です。自分の中には潜在的に弱さがある。それが信仰者の生きる土台になります。子どもにならないながら、生きる姿勢を整えていきたいと思います。 |