20241020日 聖霊降臨後第22主日

                  マルコ福音書10章35~45節 「 世界が良くなるように 」 

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

  はっきりとした意味が分からないのに、心の奥深くに届く詩があります。国や時代を越えた何かで、200年後、300年後にも残るものもあります。一青窈さんの「ハナミズキ」という歌がありますが、あの詩もその一つだと感じています。9・11の同時多発テロがあった時にニュー・ヨークに住んでいた友人からのメールがきっかけでできたといいます。わたしはキリスト者であり、牧師ですから、あの詩を聞くとイエスさまのことを思い出します。 

僕の我慢がいつか実を結び 果てない波が終わりますように 君と好きな人が100年続きますように。

  今日の第一日課は、イザヤ書53章、苦難の僕と呼ばれる個所です。イエスさまの十字架の600年前に書かれたものですが、イエスさまの十字架をそのまま描写したもののように見えます。この苦難の僕を見た人は、この人は神さまに裁かれたのだと思っていた。しかし、彼が受けた苦難、苦役、痛み、軽蔑、それは全部私たちの罪、私たちの咎の代償を身代わりに受けたものだった。私たちは、彼の受けた懲らしめによって、平和が与えられ、彼の受けた傷によって癒される、そう書かれています。
 いま世界は、報復による報復。その報復に対する更なる報復が繰り返され、戦火が広がってるように見えます。身近なところでも、嫌な思いをさせられたので、仕返しをする。生きることに不満があるので、より弱いものへぶつける、そんなことが繰り返されているように見えます。それがどんどんエスカレートしてるように感じます。
  皆さんに祈ってほしいことがあります。「世界が良くなるように」祈ってほしい。自分の願いをかなえるばかりではなく、「世界が良くなるように」祈ってほしい。おそらくは、明確な言葉にしてはいないかもしれませんが、皆さんの心の中にずっとあった切なる祈りだと思います。
 「この世界をよくする」もう少し具体的な聖書の教えは、「敵を愛すること」です。悪意に対して悪意を返すのではなく、善意を返すことです。それは簡単なことではないし、すべてできることでもないし、辛いことでもあります。しかし、それは自分が良いことをしたかどうかの問題ではなく、この世界を良くするために、神さまに召されている働きです。

 僕の我慢がいつか実を結び 果てない波が終わりますように

  神さまが選び、定められた人は、自分が為した悪に応じて重荷が与えられるのではなく、覚えのない重荷を負わされます。ヤコブとヨハネにイエスさまは、私が受ける杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか、そう尋ねています。二人はできるといいますが、本当の意味はまだ分かっていないかもしれません。しかし、結局この二人は、自分が思い描いていたものとは違う形で、でも、自分に神さまが定められたものとして、重荷を負うことになります。
 今までさんざん重荷を負ってきたから、今からは好きなことだけして生きていきたい、そんな思いも正直にあります。でも、重荷を負っている人を見ると、やはり頭が下がります。十字架を背負っているイエスさまの姿を見ると、心動かされます。わたしたちに課せられているのは、そんな大げさなことではありません。神さまは今の力に応じて、重荷を与えます。ちょっとした悪意にも、良いものを返してあげること。負えるだけでいい、人の重荷を少しだけ持ってあげること。それであなたが天に富を積める、というだけではありません。きな臭くなったこの世界をほんの少しだけ良くすることでもあります。別に自分はえらくなりたいわけではない、大きな責任は負いたくないから、この世界に仕える必要はない、そう考える人もすごく増えてきています。ただ、この世界はおそらく悪い方向に進んでいるんです。だから、偉くなりたい人も、そうでもない人も、この世界がよっくなることを祈ってください。ほんの小さな悪いものを我慢し、ほんの少し良いものを世界に与えてください。赦しと愛を与えてください。
 イエスさまは言います。私は仕えられるためではなく、仕えるために来た。この世界に仕えるために来た。多くの人の身代金として、自分の命をささげるために来たと。イエスさまや使徒たちに比べると、ほんの小さな使命ですが、小さな荷を負い、小さな使命を果たして、ほんの少しだけ、この世界を良くしていきましょう。

 わたしたちの我慢がいつか実を結び、果てない波が終わりますように
  君と好きな人が100年続きますように


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