20241027日 宗教改革主日

                  ヨハネ福音書8章31~38節 「 罪の奴隷 」 

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

  今日の聖句の中に、「罪の奴隷」という言葉が出てきます。ユダヤ人たちは、私たちは奴隷ではないと言い張ります。聖書の語る「罪の奴隷」とはどいう意味でしょう。

CSルイスの「キリスト教の精髄」という本があります。ルイスは、聖書で語られる罪とは、とても不思議なもので、他人が持っていると腹立たしく感じるのに、そう感じる人こそ、自分も持っているのですが、それにほとんどの人は気づかないといいます。まとめて表現するのは難しいのですが、傲慢、自負心といいますか、人よりも自分の方が上である、上でありたい、という思いです。自分がどれほど傲慢かを調べるために、自分にこう問いかけてほしいといいます。

 自分がもんくを言われた時、あるいは無視された時、いちいち口を出された時、恩着せがましいことを言われた時、何かを見せびらかされた時、どの程度腹立たしく感じるか

 他人と比べる思い、他人と競争する思いがどの程度強いか。 

 「罪の奴隷」と言われるのは、他人と比べている限り、満足することがなく、際限なく駆り立てられ、抜け出せないからです。いくら十分なお金を持っていても、他者よりも金持ちでいたいし、十分良いものを持っていても、他者よりも良いものを持っていたいし、いくら十分に賢くて、美しくても、他者よりも賢く、美しくいたい。そんな思いを微塵も持たない人などいるでしょうか。罪を持つから罰せられるのではありません。罪自体が、自分を苦しめる。いつまでも満たされず、あくなき競争は続き、いつも不安で、焦っている。そしてこの罪は、基本的に他者を敵のように見なしてしまいます。特に自分より優れている人を見ると、心が騒ぎます。この罪は、嫉妬、人を見下す思い、虚栄心、憎しみ、差別、貪欲、そのような罪の源になります。この罪のせいで、人は神の子さえ十字架につけます。原罪は、神と競い、神のようになろうとすることです。
 この罪を完全になくすことはできません。しかし、大きな一歩は、この罪を自分が抱えていることを認めることです。この罪は手ごわく、しつこく、この罪に対して自分がとても弱いことを認めることです。そして、十字架にかけられてもなお、この罪人をゆるし、この罪人を救おうとし続け、この罪人を愛する救い主にすがることです。
 今日は宗教改革主日ですが、宗教改革者ルターほど、自分で自分を救おうとした人はいなかったでしょう。しかし、救われている核心はずっと持てなかった。ところが、おぼれてもがいている人が力尽きて、ふと力を抜け、水に自分の体が浮かび始めていることに気づいた人のように、ルターは神さまの恵みに気づいていきます。自分の力ではなく、神の力にすべてを委ねることに気づいた人です。恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ、ルターはそう語っていきました。
 今日は洗礼式があります。罪の奴隷であったものが、イエスさまに贖われて、主に仕えるものに変えられる日です。イエスさまに仕える、イエスさまのもとに留まるとは、具体的に言えば、互いに愛し合おうとすることです。心ならずも、今まで私たちは人と競ってきました。罪のせいで、自分で気づかぬうちに、そうしていました。残念ながら、この世にいる間は、この罪が完全になくなってしまうことはないでしょう。しかし、自分が罪人であること、それを救おうとする救い主がいる、この真理は私たちを自由にしてくれます。生涯、赦され続けながら、イエスさまの愛をもらいながら、気づいたらカビのように生える自分に潜む傲慢さを洗い流し続けてもらいましょう。イエスさまの愛をもらい続け、自分の中にイエスさまのような愛が育つことを願い続けましょう。


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