2025日 復活節第3主日

                 ヨハネ福音書21章1~19節 「 不思議な助け手 」 

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

  復活節に毎年思うことなのですが、復活したイエスさまの一つの特徴は、すぐにイエスさまだと気づかれない、っていう事なんです。墓の前で会ったマグダラのマリアも、エマオの途上でイエスさまに会った弟子も、すぐにイエスさまだと気づかない。今日の箇所でもそうです。なんでそんなことするのだろうと思います。
 「利他とは何か」という本があります。5人の共著なんですけど、私が時々口に出す、カトリックの若松英輔さんとか、哲学者の國分功一朗さんも著者の中にいます。利他、あまり使わない言葉ですが、利己的という言葉の反対のイメージで、愛と似たものだと思います。この本の中で、どの著者も「利他」は難しいといいます。利他的なふるまいに見えても、隠れた利己的な思いがある場合があるからです。ものを与えるとか、助けてあげる、という行為でも、結果相手に負い目を与えたり、恩を着せたり、上下関係を作ったりすることがあります。ですから、イエスさまの教えのように、サンタクロースのように、助け手の姿が見えない方がよい、といいます。復活以降のイエスさまは、姿を隠して弟子たちを支えます。しかも、何から何まで助けてしまうのではなく、うまくいかないことが重なり、心が折れそうになった時、そっと支えるように現れます。
 利他や愛は、過剰であれば、支配や呪いになります。愛は、愛する側が肩を回して行うことではありません。愛の出来事って、作為的に起こすものではなくて、善きサマリア人のたとえのように、ふと起こるもの。一回的に起こるものです。助けられる側の思いと、助ける側の思いがふと重なって起こるものです。だから、愛の形は一回一回違う形をしています。ペトロは、イエスさまに最後に言われます。若い頃は、自分の行きたいところへ行っていた。年を取ると、他人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれると。この本にも書かれています。助けるって、助ける側の思いより、助けられる側の切実さに、心が引っ張られるような出来事です。だから、どこへ連れて行かれるか分からないことです。助けるって、大変でしんどいことなのか。そういう一面も確かにあります。しかし、それだけではありません

イエスさまのたとえ話に、やもめと裁判官のたとえというのがあります。やもめが自分の権利を守ってほしいと、何度も頼みに行く。でも、この裁判官は、神を神とも思わず、人を人とも思わない人なので、なかなか取り合おうとしないのですが、再三このやもめが来るので、うるさくてかなわないから、裁判をしてやろう、ということになる話です。この個所で、ある説教者が語っていました。実はこの裁判官、うるさくてかなわないから、とか言っているけど、再三頼みに来られたことが嬉しかったんじゃないかと。助けを求められる、頼られるって、実はそこに喜びもあります。善きサマリア人も、最初は助けることに葛藤があったようにも思えますが、最後の方には助ける喜びを感じているようにも見えます。あのたとえがいいのは、きちんと宿屋に頼っていることです。
 助けられる側の思いと、助ける側の思いが重なるときに、愛は立ち上がります。だから愛の形は一つ一つ違います。
 イエスさまがペトロに、この人たち以上に、私を愛しているか、と尋ねています。愛に上下があるんだろうかと思います。
 かつて、プロボクシングのトレーナーで、エディ・タウンゼントという人がいて、ガッツ石松とか井岡弘樹とか6人世界チャンピョン育てていて、世界チャンピョンになりませんでしたが、赤井英和のトレーナーでもありました。テレビで特集コーナーがあって、いろんなボクサーにエディさんについてインタビューしているんですけど、みんな言うのが、自分が一番愛され、自分が一番かわいがられたと。
 イエスさまの話で、借金の多い人と少ない人、帳消しにされたらどっちが喜ぶか、という話があります。もちろん、借金の多い人です。ペトロは自負があったでしょう。自分が一番、イエスさまに赦され、イエスさまに助けられたと。でも、この時一緒にいたトマスも、私こそが一番最後まで赦され、最後まで愛されたと自負していたかもしれません。
 私たちは生きてきた中で、たくさん失敗してきました。そのたびに不思議な助けが与えられました。たくさんの困難もありました。しかし、そのたびに、不思議な助け手が現れてくれました。だれがこの中で、神さまに一番助けられ、たくさん赦され、たくさん支えられてきたか。各々に、自分こそがと思っているかもしれません。それは、他の人が知らない、自分の失敗、自分のピンチ、自分の弱さを、自分が一番知っているからです。そのたびに顔を隠して、神さまが助け続けてくれました。きっとこれからも助けてくれるでしょう。これからは、ペトロのように、少しでも、神さまの助ける側の手伝いをすることができるよう、イエスさまに用いられることも祈りながら歩んでいきたいと思います。


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