2025年6月1日 主の昇天 |
|
ルカ福音書24章44~53節 「 神に用いられる幸い 」 | |
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 |
|
ある時期、説教の中で、人間の意志について語っている時期がありました。機械やコンピューターは、命じられたことしかしないが、人間は意志があるので、禁じられたことを破ります。逆に、命じられてもいないのに、倒れている敵対している民族の人を助けることもあります。しかし、その意志とは、本当に自分だけのものなのだろうかと思うようになりました。アルコール依存症のような、依存症の人は、自分が意識の中で思っていることに反して、誘惑から出てくる違った意志が出てきて、それに抗えなくなります。小さい子が、友達が使っているおもちゃをとってしまうことがありますが、以前遊んで楽しかったそのおもちゃに誘導させられたとも言えます。ユダヤ人を助けた善きサマリア人も、倒れている人を見て憐れに思った、胸が痛んだと書かれています。その思いに駆られて、それに従ったとも言えます。人間の意志は、自ら持ったもののようにも思えますが、周りの環境から誘発されている部分が随分とある気がします。 今日は、主の昇天、昇天主日です。ルカ福音書の最後の部分。復活したイエスさまは、再び死んだのではなく、生きたまま天に昇り、見えない世界に行かれました。神の右に座し、栄光を受けた場面でもありますが、復活のイエスさまもずっといてくれるわけではなく、もう現れなくなった、という意味でもあります。少し、心もとない思いも与えられます。ルカ福音書には、続きがあります。今日の第一日課、使徒言行録の冒頭に、「先に著した第一巻」という言葉が出てきます。この第一巻は、おそらく同じティオフィロにあてて書かれたルカ福音書です。ドラマなどで、冒頭で前回の終わりの部分をもう一度やって、始まることがあります。それと同じように、使徒言行録も、前回の続き、という感じで主の昇天の場面が繰り返されています。 神さまは、復活のイエスが昇天した後、人間を用いられます。最初は使徒たち、十字架では逃げてしまう、弱さと欠けを抱えた人間を用います。イエスさまが去ることで、弟子たちは覚悟が決まったかもしれません。不思議なことに、ごく身近な人が召された時、そのあとの方がかえっていつも身近にいるように感じることがあります。生きている間は、目の前に見ているときしか、共いませんが、見えなくなることで、かえっていつでも、どこでも一緒にいるように感じうることがあります。神さまは、ただ弟子たちを放り出されたわけではありません。 今日の箇所で、イエスさまは聖書を悟らせるために、弟子たちの心の目を開いたと書かれています。そして、父が約束されたもの、高いところの力に覆われるまでは待つように、そう支持をされています。来週はペンテコステ、聖霊降臨祭です。来週の日課に出てきます。私が去った後も、別の弁護者を遣わす。その別の弁護者はあなたと永遠に一緒にいてくれるようにしてくださると。イエスさまは、自分が去る代わりに、聖霊を与え続けてくれます。 ルターは、召命が与えられるのは、牧師だけではないといいます。全信徒に与えられます。召命は、ドイツ語でベルーフ、英語ではコールと呼ばれます。コール、神さまの呼びかけです。善きサマリア人が、倒れている人を見て胸が痛んだのは、神さまからのコール呼びかけです。胸に突如与えられる思いは、不思議です。ただし、すべてが神さまからの呼びかけではないでしょう。悪魔のささやきであることもあります。しかし、弟子たちに、そして私たちに、聖霊を送り、神さまからの呼びかけと、悪魔のささやきを見分ける力を与えると約束してくださいました。聖霊は神のみ旨を悟る力を与えてくれます。私たちは誘惑されるものでもありますが、神の声を聴き分けて、導かれるものでもあります。 神さまの声を聴いたのか、なぜか急にあの人が気になる、ということがあります。あの人を助けてあげたいと思いながらも、自分には力がなく、今はなすすべがない、ということもあるでしょう。イエスさまは今日の箇所で、弟子たちに、力が与えられるまで待つように命じています。待っている時、思いもかけない機会が与えられたり、自分以外のものを用いて、助けられることが起こるかもません。 主に用いられるように祈りましょう。祈るものは、より繊細に神の呼びかけを聞き取ることができるかもしれません。主に用いられるように祈るものは、自分一人ではできないことでも、他の人を巻き込んで用いられる道を見つけるかもしれません。決して無理をする必要はありません。自分の思いで頑張るのではなく、用いられる、神さまに用いられることを祈りましょう。 イエスさまが天に昇っていくとき、弟子たちが見た最後のイエスさまの姿は、自分たちを祝福している姿でした。 私たちも祝福を受けて、ほんの些細なことでいい、神さまに用いられることを祈りながら、派遣されていきましょう。愛も力も小さいですがl罪に仕えるのではなく、神さまに用いられる喜びが与えられるように祈りましょう。 |