202522日 聖霊降臨後第2主日

                 ルカ福音書8章26~39節 「 ぶちぎれる時 」 

8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。

  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

  ある方が、イエスさまの教えで、敵を愛しなさい、という教えなどはすぐには呑み込めなくても、考えるには値する、そういうものがあるように感じるといいます。しかし、悪霊とかが出てくると、とたんに聖書が読めなくなる、そう語る方がいました。現代人にとって、悪霊などと言われても、荒唐無稽な話に聞こえます。
 今日の聖書の話は、おそらく異邦人の地です。ユダヤ人は豚を食べませんが、豚飼いがいる地方です。呼び名は福音書によって、微妙に違っていますが、ユダヤ人から見て、ガリラヤ湖の対岸、ゲサラ人の地方と書かれています。イエスさまが船で渡っていくと、悪霊にとりつかれたものがイエスさまのもとにやってきます。イエスさまの方は何もしていないのに、いきなり、かまわないでくれ、と頼んできます。汚れた霊が、そう語ったのだと書かれていますが、実際には、その人が語ったのでしょう。かまわないでくれ、そう願っています。イエスさまは、その悪霊に名前を聞きます。名前はレギオン、レギオンとは、ローマへの軍隊の一個師団の単位のようで、六千人くらいの軍隊のようですが、ここでは、複数、たくさん、くらいのニュアンスで聞き取ればよいと思います。たくさんの悪霊が、この人に取りついていたといいます。最終的には、この悪霊は、イエスさまの存在におびえ、この人から出ていていき、豚に取りつきます。その豚は湖になだれ込み、おぼれ死んだと書かれています。
 現実離れをした、自分とはまるで関係のない話に見えます。ただ、一つだけ、自分と重ね合わせられると事があります。人生の中で、何度か暴れることがある。枷をはめられても引きちぎり、裸同然で墓を住まいとする、そこまではいかなくても、人生の中で、何度かぶちぎれる、そういう経験ならばあります。わりと多めの人もいるかもしれませんが、全く経験がない、あるいはぶちぎれる寸前までいったこともない、という人はかなり少ないと思います。振り返ってみると、大概、一つのことでぶちぎれたというより、いくつかの悪いことが重なってぶちぎれていた気がします。。体調も悪く、仕事もうまくいっていない。服を汚してしまう、そういうことがいくつか重なるって、ぶちぎれてしまう。自分だって、ぶちぎれたくてぶちぎれているわけじゃありません。最近、お米が高くて、米騒動が起こるんじゃないかと言われていた時期があります。そこで気づくことの一つは、江戸時代にあった米騒動も、騒動好きが起こした事件ではなく、落ち詰められた人たちが、やむにやまれず騒動を起こしたのだと思います。政府が、格差社会を是正しようとしたり、福祉をするのは、人権の尊重ということもでしょうが、現実的に、追い詰められた人がいると、治安が悪くなる、そういう現実問題があるのだと思います。ヘイトスピーチとかする人は、頭のおかしい人なのかと思っていましたが、よく調べると、追い詰められているような生活をしている人が多かったりします。騒動を起こす人、治安を乱す人は、その人自身が悪いというより、社会のひずみで、その人に、悪いことが重なってしまう。自分自身でもよく分からないが、やむにやまれずそうしてしまう、そうなって今うのだと思います。私たちも追い詰められれば、悪いことが重なれば、不本意ながらぶちぎれてしまう可能性があります。その悪いことが長く重なり続ければ、ぶちぎれ続けるのかもしれません。神学校の頃、牧会カウンセリングの授業で、人は喪失経験をすると、落ち込んだり、不機嫌になって人に八つ当たりをしたりするといいます。すごく印象的だったのが、ずっと落ち込んでいる人、ずっと不機嫌な人は、一時的な喪失ではなく、何かを喪失し続けている人だという話でした。
 自分が最悪な状況の時、心ある人が、最近どうも、お前らしくない、そう言って関わってくれる人が居たりします。そんな時、私たちは、どう反応するか。ちょっと今は、かまわないでほしい。そういう反応をしてしまう。それでもなお、一人で抱えるな、そう言って踏み込んできてくれる人のおかげで、事態が動いていく、そういう経験をしたことがあります。悪循環にいる時は、世の中全般が信じられなくなっていることがあります。今日の福音書の顛末まで考えると、死に追い込まれる、そんな心境を経験したことがある人もいると思います。
 悪いことに重なって襲われ続け、ぶちぎれて、暴れまわり、最後は死にたくなる。助けようとした人に、かまわないでくれ、そう願う。悪霊なんて荒唐無稽の話のように聞こえますが、実は、悪霊という考え方は、その人自身が悪いわけではなく、悪いものに襲われ続けている、しかもたくさんの悪いものに襲われ続けている、そんな状況が本来のあなたらしさを失わせている、そういう考えから出るものです。そんな時に、罪を憎んで人を憎まず。悪霊を憎んで、人を憎まず、一人で抱えるな、そう言って悪いものを含めて、共に担ってくださる。罪の赦しを与え、その人自身を愛し続けてくださる、イエスさまは、そういう方です。こういう方こそ、救い主、そう信じる者の群れが、教会であり、兄弟姉妹です。悪いものが複数襲い掛かることがあります。一人で抱え込まず、イエスさまに、兄弟姉妹に、共に担っていただきましょう。


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