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2025年7月6日 聖霊降臨後第4主日 |
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| ルカ福音書10章1~11 16~20節 「 平和があるように 」 | |
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10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
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| 今日の福音書の箇所は、72人の弟子たちを、二人一組にして、派遣する場面です。派遣して何をさせたのか。弟子になるものをもう一人か、二人連れてこさせたというわけではありません。させたのはまず、その家に平和があるのように、そう言わせています。そして、神の国が近づいていることを告げさせます。共に生活をし、病人を癒すことをさせています。 今日の第一日課でも、第二日課でも、繰り返し「平和」という言葉が出てきました。平和と訳されている言葉は、平安とか安心とも訳される言葉です。キリスト者が今も派遣されているのは、行く先で、その家の平和を祈るためです。世界の平和を祈るためです。 この数年、痛烈に思わされることの一つは、「平和」はそんなに簡単ではない、ということです。ルカ18章に、やもめと裁判官のたとえ話が出てきます。おそらく不当な扱いを受けていたやもめが、裁判官に裁判をしてもらおうと願いますが、この裁判官は人を人とも思わず、神を神とも思わない人なので、なかなか裁判を開いてくれません。しかし、余りにしつこく頼むと、しょうがないからと裁判を開いてくれる、という話です。このたとえの冒頭には、イエスさまが、気を落とさずに堪えず祈ることを教えるために、このたとえを話されたと書かれています。このやもめは、このたとえの中で、手を合わせて祈る場面は出てきません。あきらめずに、訴え続けた、それこそが祈りである、そう言われている気がします。 本当の祈り、本当の信仰は、自分の無力さを認めたところから始まります。自分の無力さを認め、それでもなお諦めずに希望を見出そうとするとき、人は神さまに祈り始めます。私たちは、想像以上に平和を実現することに対して無力でした。わたしたちは、平和をあきらめてはいけません。気を落とさずに祈り続けなければいけません。この平和への祈りであれば、キリスト者ではなくても、共に祈ってくれるかもしれません。 最近出た本にこんなことが書いておありました。ユダヤ人の中にも、ネタニアフのパレスチナ人を力で殲滅させるやり方に、反対している人がいるはずです。パレスチナ人の中にも、ハマスの力に訴えかけるやり方に反対している人がいるはずです。アメリカ人の中にも、トランプのやり方に反対している人が必ずいます。ロシアの中にも、プーチンのやり方に反対している人がいる。問題の解決に、力を使うことに反対している人が世界にはたくさんいるはずです。キリスト者である必要はありません。連帯してともに祈れないだろうか。 今年に入って、他の教会に出ていて、キリエの二という方を唱える教会がありました。良い言葉だと思いました。 世界の平和と神の教会の成長と、主の民の一致のために祈りましょう という言葉が出てきます。教会の中で、教派が分かれていることは、豊かでよいかもしれません。しかし、教派間で争い合ったり、いがみ合ったり、傷つけあったりするならば、それは神さまのみ心ではありません。体にはいろんな部分がありますが、バラバラではいけません。手が足に向かってお前はいらない、と言ってはいけないでしょう。主の民の一致、神の教会の成長、世界の平和を共に祈ることです。かつてキリスト教は、ヨーロッパで今日は間で戦争をしていました。そのために、平和を導く役割を担うことができませんでした。しかし、今は、かつてないほどに教派間の壁が低くなっています。これは決して良い理由ではなくて、お互いが弱くなってきたからです。全道一区と同じ理由です。でも、この道を通る必要があったのだと思います。今は、共に祈れます。 |