202527日 聖霊降臨後第7主日

                 ルカ福音書11章1~13節 「 愛と正義 」 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる

  今日の福音書の箇所は、主の祈りの箇所です。恐らく人生で一番祈った祈りです。今日の箇所である牧師が説教の中で、正直な人だな、と思いましたけど、他の考え事をしながらでも、主の祈りは祈れる、そう語っていました。正確に言えば、祈れるというより、主の祈りの言葉を口にできる、そういう意味だと思います。最近、繰り返し言っている気もしますが、祈りは、自分の無力さを認めたときに、それでもなお求める時に、本当の祈りが生まれてくる。今日の後半に書かれていることでもありますが、一度求めることは、それほど難しくはありません。求め続けること、何度か叶わなくてもなお求めること、そこに本当の祈りが生まれます。
 主の祈りを、心から祈れているでしょうか。御名があがめられるように、御国が来るように、御心が地でも行われるように、心からそう思えているでしょうか。
 御心、神さまのみ旨というのは、何か漠然としていてつかみどころがない気もしますが、神さまのみ心とは、イエスさまのみ心でもあります。イエスさまって不思議な存在で、本来並び立たないものが両立しているそんざいです。
 ある人が言っていたんですが、堺雅人という役者がいます。半沢直樹とかやっている人です。半沢直樹って、堺雅人がやらないと、ただ激しいだけの嫌な人になっていたかもしれない。ただ、あの人がやると、品が保てるといいます。激しい人なのに、品もある。本来並び立たないものが両立しています。
 イエスさまが両立させているものは、愛と正義、憐れみ深さ感じるとともに畏れも感じる方です。圧倒的な存在でありながら、近くにいます存在です。神であり、人である方です。わたしたちは、この両方を常に受け留めなければなりません。ただ、それが難しい。
 わたしが神学校時代、徳善先生が教職者会、牧師会の講師をしてきて、帰ってきてからこんな愚痴をいっていました。講師として話した内容をざっくりいえば、牧師はまじめでなければならないし、でも同時に遊び心がなくてもいけない、そういう話をしたそうです。そしたら、この人もっと遊び心を持たなきゃと思っている牧師に限って、やっぱり牧師は真面目じゃなきゃダメですよね、ってリアクションしてくるそうです。逆に、この人もっとまじめにやったらいいのに、そう思う牧師に限って、やっぱり遊び心が大切ですよね、そう言ってきたそうです。同時にといわれても、人間自分の好きな方ばかりを選び取る。
 愛と正義、憐み深さと畏れ、同時に受けとめなければいけません。正義と畏れだけを受けとめるなら、裁かれることが怖くて何もできなくなる。あるいは、ファリサイ派や律法学者のように人を裁いてばかりのものになる。逆に、愛と憐みだけ受けとめるなら、どうせ赦してくれる、どうせ助けてくれる、そう言って悔い改めがおろそかになります。
 わたしたちは、偏っており、自分に都合よく解釈するものです。その意味でも、わたしたちは罪人です。しかし、赦された罪人であり、愛された罪人です。恵みを与えられた罪人です。わたしたち自身は無力です。でも、そこでこそ本当の祈りが生まれます。
 そしてイエスさまが教えてくれる本来の祈りは、偏った人間同士が、自分の好み通りになりますように、自分の思い通りになるようにという祈りではありません。そこには争いが生まれます。偏った人間の思いではなく、御心が行われますように、そう願うことです。憐みと畏れを合わせ持つイエスさまがこの世界を支配し、守ってくれるように、そう願うことです。多くの人、全ての人が、イエスさまのような方こそ尊敬する世界になりますように、そう願うことです。私たち人間同士は、罪人同士ではありますが、互いに赦しあうことができるように祈ることです。加えて言えば、全ての人に今日の食べ物が与えられますように、そう祈りなさいと教えています。今の世界は、そのような世界からはかけ離れていますが、あきらめずに求め続けましょう。あきらめずに祈り続けましょう。

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