202510日 聖霊降臨後第9主日

                 ルカ福音書12章32~40節 「 小さなもの 」 

32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」  

  今日の福音書の箇所は、「小さな群れよ、恐れるな」という印象的な言葉から始まります。小見出しのブロックの途中から始まっていますが、その前段は、思い悩むな、空の鳥、野の花を見なさい。働きもせず、紬もしないが、神さまが養い、着飾ってくださるではないか。恐れずに、施しなさい。神のわざに励み、天に富を積みなさい。必要なものは、神さまが備えてくれる、という話です。
 そして、イエスさまは一つのたとえ話をします。ある主人が婚宴に出かける。当時イスラエルでは、結婚式は数日にわたって行われたといいます。いつ終わるのかが分からない。ですから、主人がいつ帰ってくるか分からない。そんな中、主人が真夜中に帰ってきても、夜明けに帰ってきても、きちんと備え続け、目を覚ましている僕は幸いである、というたとえ話です。
 最初に思うことは、ずっと目を覚ましているのは無理だということです。もちろん、ここで言っているのは、眠るなと言っているわけではありません。試験の日が決まっていれば、私たちはそこに向かって準備をし、最後の一晩くらいは一夜漬けで徹夜しても構わないと思います。しかし、信仰とは、そういうものではありません。神さまは、一時的に熱心になることを望んではいません。その試験は抜き打ち試験のようなものだから、毎日備え続けなさい、と言われています。もう一つ思うことは、主人の突然の帰宅は、イエスさまの再臨を思わされます。しかし、イエスさまが再臨されたことは一度もありません。日々備えるということも分かるが、長い間ずっと来なければ、いつの間にか緊張感は途絶え、備えは疎かになってしまいます。
 トルストイの書いた「靴屋のマルチン」という物語があります。息子を亡くした老人の靴屋のマルチンは生きる気力がなくなっている、そんな場面から始まります。もう死にたいとつぶやくマルチンに、友人は、自分のためだけに生きたいと思っているから、全てが嫌になっているんだといわれます。では何のために生きればいいのか尋ねると、友人は、命を授けてくれた神さまのために生きろといいます。じゃあ具体的にどうすればいいのかと聞くと、聖書を読むように勧められ、マルチンは聖書を読むようになります。するとある日、マルチンは夜中に、神さまの声を聴く。「明日お前に会いに行く」と。マルチンは翌朝、あれは夢だったのかと思いながらも、その日はずっと窓の外が気になる。窓の外を見ていると、雪かきして疲れ果てている近所の老人がいる。マルチンはその人に声をかけ、暖かいお茶を一杯あげる。その後も靴屋の仕事をしながらも、窓の外が気になる。すると冬なのに、薄着で赤ん坊を抱えた女の人がいる。マルチンは気になり、その人を迎えて、暖かい食べ物を振る舞い、外套を着せてあげる。そんなことがいくつかあり、夜を迎えます。ああ、やはり神さまは来てくれなかったのかと思う。すると神の声が聞こえてくる。「あなたは私が渇いた時に飲ませ、飢えている時に食べさせ、裸の時に着せてくれた」そういう言葉を聞いた、という話です。神さまは、小さなもの、欠けたものとして、マルチンの前に現れていた、という話です。「小さなものにしてくれたのは、私にしてくれたのと同じである。」と言われる神さまは、少なくとも、そのように小さなものを見守っているという話でもあります。
 神さまは、小さなもの、弱いものを通して、あなたを必要とします。できないことをしなくても、神さまは咎めることはしないでしょう。できることでいい。恐れずに施し、助けなさい。
 しかし、小さなもの、弱いものの前に立つときは、私たちの醜さが出やすい場所でもあります。今日の日課からはみ出ますが、45節に、主人の帰りは遅れると思い、恐らくは不忠実なふるまいをした下男や女中を殴っているならば、主人は思いもかけない時に帰ってきて、彼を不忠実な者たちと同じ目に合わせる、厳しく罰すると書かれています。強いものに対するときは、私たちは悪い態度はとらないものです。しかし、神さまが最も目を向けているのは、私たちの小さなもの、弱いものに対する態度です。見下し、雑に扱うのか、支え助けるのか。わたしたちは、目を覚まし、悔い改めなければならない。
 ただ、ここに描かれる主人は、少し変わった人で、37節に 

 37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。

  この主人こそ、弱い立場のものに仕え、喜びをもたらしてくれる方です。神さまは、小さなものを通して、あなたを必要としています。必要なものは、備えてくれる、思い悩むな、「小さな群れよ、恐れるな」、と語りかけます。できることで構いません。神さまの援助を信じて、人に仕え、神さまに仕えていきたいと思います。

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