2025日 聖霊降臨後第13主日

                 ルカ福音書14章25~33節 「 十字架を通って 」 

14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

  先日、隣の陰謀論という本を読みました。帯に、「トランプは闇の政府と戦っている」「オバマもバイデンもすでに処刑された」と書かれています。実際には根拠はないのに、流される陰謀論についての本です。2020年の大統領選では、選挙に不正があったとか、第2次世界大戦中に、ドイツやヨーロッパで、捏造されたものですが「シオン賢者の議定書」というのがあって、ユダヤ人が世界を陰で操っている、という内容のものですが、根も葉もない陰謀について扱った本です。ただの都市伝説、噂話のようなものでもありますが、現実に影響を及ぼしています。陰謀論について、詳しく語るつもりはないのですが、陰謀論は少し魅力的です。複雑なものをシンプルに説明してくれます。それに何より、今自分があまりうまくいってないのは、自分のせいではなく、陰で世界を操っている悪い奴らのせい、と思えると少し気が軽くなります。
 ただ、信仰の道に入るということは、そのような気休めから離れることです。ひたすら、自分自身の弱さ、罪深さを見つめることになるからです。先日の合同教職者会で、戦中のキリスト教会の歴史について学びました。各教派が合同して、日本キリスト教団を作りました。合同はかなりもめていたのに、救世軍幹部の一斉検挙、ホーリネス幹部100人の一斉検挙などが起こったとたん、慌てて無理やり合同し、その教団の中で天皇崇拝も行われるようになったという話でした。ドイツでも似たような動きがありましたが、ボンヘッファーやゴルビッツァーという人たちが、告白教会というものを作って、ドイツ政府と戦いました。日本では、そういう動きはありませんでした。日本福音ルーテル教会も日本基督教団に合同しました。NRKは戦後できた教会なので、直接その歴史は関わっていません。しかし、想像するに、そのときNRKがあれば、同じ動きをしていたと思います。
 教会ばかりではありません。今、朝の連ドラは「あんぱん」アンパンマンの作者やなせたかしと、そのお連れ合いの話です。あの戦争の戦死者の6割以上が餓死だといわれています。中国に渡ったやなせたかしは、日本は東アジアの欧米植民地支配からの解放のために戦っていると聞かされていたのに、中国の人たちに日本人が全く歓迎されていないことに驚きます。やがて中国で柳瀬も、餓死寸前になる。ただ、日本兵は黙って餓死していったわけではなく、中国人の家を襲って食べ物を強奪しようとする。そんな場面もドラマで描かれます。戦って死んだ人より、日本の愚策によって犠牲になった人が多く、また、中国でも、日本人は憎まれるようなことを確かにしていたのだと思います。今日のイエスさまの話の中に、2万の兵が襲ってきたとき、1万の兵で迎え撃てるかまず腰を据えて考える、無理なら和を求める、という話が出てきます。しかし、日本は無謀な戦いを玉砕するまで戦った。わたしたちは、この負の歴史を覚え、どこで間違ったのか問題を見つめなければなりません。しかし、それは、昔の日本人は愚かだった、昔の教会は弱かったと、他人事のように見つめるわけにはいきません。自分もその時代、そこにいれば似たようなことをしていたに違いない。我が罪として、見つめる必要があります。
 私自身、昔の日本人はダメだったと、そんな風に思えていた時期がありました。それは聖書の読み初めた頃で、聖書を読みながら、私がこの時代のこの場所にいたら、きっと裏切ったりしなかった。十字架につけることに反対した、そんな風に思えていた時期です。しかし、その頃は、本当の信仰まで、まだまだ距離があったころです。
 信仰者とは、絶対に裏切らないと前夜に宣言していたペトロが、いざとなったら裏切ってしまう、そんなペトロと自分を重ねられる人です。逃げてしまう弟子たちを、自分と重ねられる人です。信仰者とは、周りに流されて、十字架にかけろと叫んでしまう人に、自分を重ね合わせられる人です。聖書に出てくる罪人と自分を重ね合わせ、自分の弱さ、罪深さを見つめる道を通らなければ、本当の意味でのイエスさまの赦し、憐み、恵みが見えてきません。
 キリスト者とは、自分の先祖、親子、兄弟、そして何よりも、自分自身の弱さと罪深さを見つめる人です。しかし、それがかえって、最終的に自分を生かすことであると信じる人です。親子兄弟を生かすことであると信じる人です。ルカには出てきませんが、マタイの並行箇所には出てきます。命を得ようとする者は失うが、イエスさまのために命を失うものは、かえってそれを得る。
 陰謀論を信じて、人のせいにできることは、ちょっと気が楽ですけど、最終的には、身を亡ぼすかもしれません。戦中の日本の黒歴史は本当にはなかったと、思えれば気が楽かもしれませんが、そのせいで同じ過ちと、同じ後悔を繰り返すかもしれません。自分の先祖、自分の家族、自分自身の罪を見つめることは、心痛むことでもあります。しかし、それは最終的には、日本を生かし、家族を生かし、自分自身を生かすことになる。わたしたちは、それを信じて、自分の十字架を背負って、イエスさまに従っていきます。十字架を通って、復活の道を進みましょう。

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