202514日 聖霊降臨後第15主日

                 ルカ福音書15章1~10節 「 おごっている私 」 

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

  

本日の箇所の冒頭1節に、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とあります。直前の1435節で、イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉を聞いて、徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうとして、近寄って来たのかもしれません。するとファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不満を言い出しました。このような不満は、ルカ福音書の5章27節以降でも、イエス様に対して「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と出てきます。イエス様は、徴税人や罪人と一緒に食事をされたのです。それはなぜでしょうか。

14章で、安息日にファリサイ派のある議員が催した食事会に出席した主イエスは、そこにいた人達に譬えを用いて語られました。ファリサイ派の人達や律法学者達が、神の国の食事へ招かれているにもかかわらず、それを拒んでいることをお示しになり、神様が当時の社会で、食事会に招かれるにふさわしくないと考えられていた人達を、神の国の食卓へ招かれることを語られたのです。そしてイエス様は、食事会に招かれるにふさわしくない、排除されていた徴税人や罪人と共に食事をされたのです。

 これは、単に誰と一緒に食事を共にするかの問題ではありません。「この人は罪人達を迎えて、食事まで一緒にしている」と言われているように、食事を共にするということは、当時、とても重んじられていました。徴税人や罪人を受け入れ、共に食事をされるイエス様に対し、ファリサイ派の人達や律法学者達は不満を言いましたが、その理由は、イエス様が彼らと食事をしなかったからではありません。

最初にお伝えしたように、イエス様がファリサイ派の人達や律法学者達とも食事をしている姿が聖書には書かれています。しかし、彼らにとって徴税人や罪人と一緒に食事をすることは汚れることでした。こんな人達とは一緒に食事をしたくない、交わりを持ちたくない、と思っていたのです。このようなファリサイ派や律法学者の姿に、私達はどのような思いを抱くでしょうか。

そんな仲間外れなようなことをしてみっともない、自分はやらない!と思うでしょうか。私自身の歩みを振り返ってみると、そう言い切れないということに気付かされます。むしろ、そのように区別する、差別する立ち方をしていると気づかされるのです。皆さんは、どうでしょうか。皆さんもご存じのように、ファリサイ派や律法学者は、律法の掟をしっかり守って生きていました。

私達は自分と他の人を比べ、相手を見下したり、妬んだりすることがあると思います。そういった気持ちに支配される時、私たちの心はこの人とは関わりたくない、嫌いだ、という思いで支配されてしまうことがあると思います。このファリサイ派や律法学者の振る舞いは、私達自身なのです。そして、そう振舞ってしまう心は自分で取り除くことができるわけではありません。イエス様の語りかけを聞きとり、自分自身の問題を自覚させられ、その自分を受け入れ、イエス様が全ての人々に寄り添って歩んだように、そのような新しい生き方に心を向ける者とされていく時、自由にされていくのです。そして、本日の箇所の譬え話です。まず4-7節で「見失った羊のたとえ」を話され、8-10節で「無くした銀貨のたとえ」を話されています。この二つの譬えは、どちらも失われたものを見つけ出すまで捜すことが見つめられています。

はじめの譬え話では、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と語られています。「あなたがたの中に」と語り始めることによって、イエス様は、ファリサイ派の人達や律法学者達に、この譬えを自分のこととして受け止めるよう導かれます。こうイエス様から聞いて、皆さんならどう思うでしょうか。

九十九匹を野原に残して、一匹を捜しに行くのはおかしいとか、一匹ぐらい犠牲になっても良いだろうと考えられるかもしれません。しかし、この時代、羊飼いが飼っている羊は、とても大切なものでありました。ユダヤ人は、遊牧民として生きており、貧しい生活を強いられたユダヤ人にとって、羊は命のように大切で、生きていくことを支えていく上で、重要なものでした。一匹いっぴきに名前をつける程でした。また安息日を厳格に守ったユダヤ人は、多くの行動が禁じられていました。ただ、井戸に落ちた羊を助けることは許されていました。

このようにイエス様が語る言葉から、当時の背景や実態も踏まえ考えていくと、この譬えが、九十九匹を危険に晒してまで一匹を捜しに行くのか、それとも一匹を犠牲にしても九十九匹の安全を守るのかについて語ってはいないのではないか・・・と考えられてきます。このことは次の譬え、「無くした銀貨のたとえ」を読むことでわかってきます。

そこでは「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われています。ドラクメ銀貨はデナリオン銀貨と同じ価値で、一日の賃金に当たります。大切なお金です。自分の大切なお金が失われないために当然そうするだろう、と言われているのです。この時、九枚の銀貨については特に問題になっていません。一枚の銀貨を捜すからといって、九枚の銀貨が危険に晒されるわけではないのです。だから、見失った羊の譬えにおいても、その中心は、多くを危険に晒すことにではなく、失われた一匹を見つけ出すまで捜すことに意味があるのです。

 この譬えにおいて、失われた一匹の羊こそが私達です。いや、失われた一匹の羊とは徴税人や罪人であり、残った九十九匹の羊がファリサイ派の人達や律法学者達であるなら、私達も残った九十九匹の羊ではないか…と思うかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。

私たちがそのように考えるのは、自分の中におごる気持ち、偉ぶる気持ちがあるからではないでしょうか。徴税人や罪人だけが失われた羊ではない。ファリサイ派の人達や律法学者達も失われた羊なのです。「見失った羊」、「無くした銀貨」の「見失う」、「無くす」と訳されている言葉は、「滅びる」という意味の言葉です。徴税人や罪人は、その罪のゆえに滅びかけていたのだと思います。ファリサイ派の人達や律法学者達は、自分の正しい行いによって救われるのは当たり前と思い、神の招きを拒むことによって滅びかけていたのです。そこでイエス様が語るのです。

私達も、自分の力で生きることができると勘違いし、神様から離れて過ごしているのではないでしょうか。しかし、神様はそのような私達一人ひとりを見つけ出すまで捜し回って下さいます。私達が自分の羊や銀貨を失わないために捜すように、神様はご自分のものを失っても私たち一人ひとりを捜して下さるのです。

また、どちらの譬えも「そして、見つけたら」とあります。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(5-6節)。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(9節)。失われたものが見つけ出された喜びで満ち溢れています。

それぞれの譬えの最後で、こう言われています。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使達の間に喜びがある」(10節)。「悔い改める」とは、反省することではありません。神様の方に向き直り、神様に立ち帰ることです。

 神様は失われた一人が見つけ出されることを、滅びかけていた一人が救われることを喜んで下さいます。そして私達に「一緒に喜んでください」と呼びかけられるのです。失われていたのに見つかり、滅びかけていたのに救われたのなら、一緒に喜んでください、と神様は私達に呼びかけられています。神様は、私達一人ひとりを共に喜ぶ交わりへと招かれています。その招きに与れる者として、神様に向いていく歩みへと押し出されていきたいと思うのです。

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