202528日 聖霊降臨後第16主日

                 ルカ福音書16章19~31節 「 ラザロ 神は助ける 」 

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

  自分が気づいた時には、世界は始まっており、自分の人生は始まっていました。気づくと、この人生には必ず死という終わりがあるようで、全ての人がその死をなるべく先送りにしようと必死に生きていました。死が嫌なのは、親しいものとの別れもありますが、何よりもその後どうなるか分からない不気味さです。こうであってほしいという願望はありますが、自分の願望が死後に反映されるわけではありません。
 今日の福音書の箇所は、福音書の中でもいくつかの例外的なことが書かれている箇所です。まず、たとえ話ではありますが、死後の世界が舞台になっています。生きている間は貧しく、病気もし、大変な思いをしてきたラザロが、天使によってアブラハムの宴席に連れて行かれている。一方、毎日贅沢に遊び暮らしていたという金持ちは、陰府で炎の中でもだえ苦しんでいます。陰府、ギリシャ語でハデスという言葉ですが、新約聖書に10回出てきます。炎でもだえ苦しんでいると描写されているのは、この個所だけです。他の箇所では、終わりの日に裁きを受けるために死者が眠って待つ場所として書かれています。この個所での表現は何か特別な意図があったのかもしれません。
 天使に連れられたラザロは、貧しくとも信仰が深かったとか、愛情深かったとか書かれているわけではありません。天に招かれたのは、ただ、この世で悪いものをもらっていたから、と書かれているだけです。この金持ちに対して、信仰的にも倫理的にも悪かったとは特に強調されていません。そういう見方をする牧師もいます。毎日贅沢に遊び暮らしていたと書かれていますし、ラザロをもっと助けられたのに助けなかったとか、ラザロを僕のように水を持ってこさせようとした、そのような部分を強調する牧師もいます。しかし、多くの牧師は、少なくともラザロを自分の庭から追放しなかった、ラザロの名前を知っていた、自分がだめでも兄弟だけは助けてあげたい、そんな思いを持っていた人であったと語ります。実際に私たち、自分の家の庭先にラザロが居たら、どこまでのことができるでしょうか。お金持ちであれば、毎日贅沢に遊び暮らしたい、私たちもそんな思いを持っています。
 このたとえを聞いて、深く考えさせられるのは、死後の世界の中でも、金持ちの交渉相手が、神さまではなく、アブラハムだということです。神さまはこの死後の世界を創り、この死後の世界のルールを定めた方です。隠されていて、被造物とは全然違う位置にいる方です。自分で作ったルールも、自由に変更したり、飛び越えることができる立場です。安息日を破り、異邦人を救う方です。ある意味では、何を考えているか分からない存在です。
 この聖書の個所にはもう一つ例外があって、イエスさまのたとえ話の中で、唯一登場人物の名前が出てくるたとえ話です。ラザロ、この名前の意味は、「神は助ける」という意味です。聖書が繰り返し伝えていることは、神さまの圧倒的な存在の大きさです。見える世界も、見えない世界も作られた方であり、その世界のルール、性質も作られた方です。人間がそのルールを読み取って、あなたが作ったルールなのだから、神さまはこうすべきだと指示を出すような存在ではありません。ファリサイ派や律法学者は、罪人など救うべきではない、そう読み取り、神はそうすべきだと思っています。しかし、善良でも信仰深くもないラザロを、神さはただ苦しんだからという、それだけの理由で助けます。神さまは、人間から見て例外的な働きを平気でします。
 イエスさまが繰り返し教えていることのもう一つは、神さは人をすごく助けようとしている方だ、ということです。神さまはルールを平気で踏み越えますが、常に人を憐れみ、罪深いもの、弱いものを助けるために踏み越えます。神さまは、すごく助けようとしているのに、人間は、このような人は助けるべきではないと互いに足を引っ張り合います。私たちでいえば、信仰熱心ではないあの人、洗礼を受けていないあの人、キリスト教の迫害者であるあの人、イエスさまを裏切ったあの人、夕方一時間しか働いてないあの人に恵みを与えるべきではないと考えます。しかし、誰を憐れみ、誰に助けを与えるのか、それを決めるのは神さまです。夕方一時間の人にも一デナリオンを与え、裏切ったペトロをゆるし、迫害者だったパウロを用い、洗礼を受けていない隣で十字架にかかる人に楽園の約束をし、信仰熱心ではないラザロを天にあげ、逃げた羊を探し出し、放蕩した息子を喜んで出迎える。神さまは圧倒的な存在ですが、神さまはあなたが思っているより、あなたを救おうとしています。そして、他の人をも救おうとしています。
 最後のところに、死者がよみがえって死後の世界を教え、為すべきことを語ったとしても、人は聞かないだろう、と語られています。本当にそうだと思います。その人が何を語っても、本当に死者がよみがえった者なのか、私たちはどこまででも疑い続けると思います。しかし、イエスさまは、それでもなおよみがえって私たちに語り掛けます。
 神さまは圧倒的な存在です。あなたのすべてを知っています。あなたの罪深さ、弱さを知っています。しかし、ラザロ、神は助ける、あなたが思っている以上に憐み深く、人間を助け、あなたをも助けようとする方だと聖書は教えます。死んだ後どうなるかは本当のところ分かりません。ただ、もし自分が救われるなら、イエスさまのような方しかいない、私はそう感じています。死者からよみがえった、イエスさまの教えに従っていきたいと思います。

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