202510日 聖霊降臨後第17主日

                 ルカ福音書17章6~10節 「 あきらめない方 」 

17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17:7
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

  神さまがユダヤ民族の族長となるべく、アブラハムを召し出し、約束の地へ向かわせたのは、アブラハムの子孫であるユダヤ人が地上の祝福の源となるように、という使命を与えたからです。このユダヤ人によって地上のあらゆる氏族が、祝福に入るように、そのために召し出されました。しかし、ユダヤ人は、自分たちの祝福だけを求め、自分たちの発展繁栄を求めました。そこで神さまは、ユダヤ人の捨てた石を親石として、教会を作り、その使命を教会に託した。少なくともキリスト者は、そう理解しています。しかし、その祝福をキリスト者だけが独占しようとするなら、ユダヤ人と同じ過ちを犯すことになります。
 今日の福音書の箇所は、僕の話が出てきます。僕と訳されていますが、奴隷とも訳される言葉です。僕は畑の仕事をした後、すぐ食事をするだろうかといいます。夕食の用意をし、主人の腰に帯を締め、主人のために給仕をし、そのあと食事をするといいます。やはり僕というより、奴隷という言葉を使った方がはっきりします。そして、奴隷制が悪しきものとして撤廃された私たちの時代に読むと、やはり違和感を感じます。しかし、この話は、もともと弟子たちが私の信仰を増してください、そう願ったところから語られている話です。師匠と弟子に置き換えれば、もう少し理解しやすくなります。ただ、今は師匠弟子という関係性も少なくなってきています。昔は、大工や料理人、漫才師なども徒弟制度、師匠と弟子のよう関係から出発しました。しかし、今は漫才師でも養成学校に入ります。ただ日本は、文化とすれば、儒教圏にあるので、先輩後輩、年上年下という関係は今でも残っています。ハラスメントの温床になるような関係でもあるので、全面的に良いものだとは言えませんが、一部すごいな、と思うことがあります。娘が中学で吹奏楽部に入ると、とにかく先輩の言ったことは、親の言ったことよりよく守る。この練習を積み重ねていくと、何に結び付くか分からないようなことでも、信じてやり続ける。基本というのは、長年の知恵が込められているものなので、一から十までなぜそれをする必要があるのかは分からなくても、やはり着実に成長していく。自主的にやったことなら、もういいやと途中でやめてしまったりしますが、先輩の言いつけとは、持続させる力があると感じることがあります。
 更に言えば、たまたま同じ学校の先輩後輩ということではなく、この人についていきたい、惚れこむような師匠に出会えるなら、それは素晴らしい出会いです。生涯の中で、この人についていきたいと思える人に出会えたなら、幸いだと思います。
 私たちは、イエスさまに出会いました。この方は私たちの主であります。しかし、イエスさま自身は言う「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たと。」イエスさまは人に仕えるために来た人です。イエスさまを見てて思う。この人は、人をあきらめない人です。多くの人が見捨てた人を、なおもう一度探し出して再生させる方です。逃げた羊を、罪人を、裏切った弟子たちを、もう一度出会い直して、そこからもう一度良くしようとする方です。何度も失敗するこの私たちを、何度でも赦して、何度でも再び生かそうとする人です。私たちは、このイエスさまの弟子であり、僕です。僕のやるべきことの一つは、主であるイエスさまの手伝いです。人をあきらめずに、再生させることを手伝うことです。何度失敗を繰り返しても、そのたびに悔い改めに導き、赦すことです。今日は読んでいませんが、17章の1から5節までには、兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。悔い改めたら赦してやりなさい。1日7回罪を犯しても、7回悔い改めたなら、赦してあげなさい。そう語ります。つまずきは避けられない。でも、うまく生きられない人、小さなものを潰してしまうな。潰すのではなく、立ち上がらせなさい。私たちはあきらめてしまいますが、私たちの主であるイエスさまは、人をあきらめない。もう一度ここから良くなろう、躓いたものを立ち上がらせる方です。何度でも人を生かそうとする方です。世の中には、見捨てられている人がいます。自分で自分をあきらめてしまっている人もいます。ここから良くなろうと、声をかけてもらえない人がいます。イエスさまは、そのような人のあために、地上に来られました。このような素晴らしい主と出会えることは、幸いです。私たちも、主によって赦され生かされたものです。人に仕える僕の頭であるイエスさまの僕として、微力ながらイエスさまと同じ方向を向いて、歩き出したいと思います。イエスさまを信じて、イエスさまの言葉に従っていきたいと思います。

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