20251012日 聖霊降臨後第18主日

                 ルカ福音書17章11~19節 「 本当の信仰 本当の救い 」 

17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 17:12 ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 17:14 イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

  長い人生の中で、救われたと思うことがあるでしょう。もう立ち直れないと思ったとき、誰かが手を差し伸べてくれた、励ましの言葉をかけてくれた。誰かの助けや言葉がなければ今の自分はない。そう強く思わせることが誰にでもあるのだと思います。今日の福音書の日課で、一人のサマリア人が救われたことが記されています。
 重い皮膚病を患っていた10人の人たちがイエス様にお願いします。「わたしたちを憐れんでください。」重い皮膚病は、聖書によっては癩病とも訳されます。癩病に罹った人たちは、神様の罰を受けた人として扱われました。その病気が治っても、祭司が認めなければ、社会的には治ったとは認めてもらえませんでした。レビ記には、癩病患者は隔離しなければならない、と書かれています。実際には、癩病患者たちが村から隔離され、人里離れたところで共同体を作っていたそうです。この10人もそのような境遇だったのかもしれません。彼らはもともと住んでいた村から追い出され、肉体が弱っていただけでなく、社会的に疎外され、精神的に追い詰められていた。その意味で、重い皮膚病が治ることは、健康が回復することよりも大きな意味があったのだと思います。
 この10人はイエス様の言葉によって清められましたが、話はこれで終わりません。重い皮膚病を癒された10人のうちの一人が、大声で神を賛美しながら戻って来た。そしてイエス様の足元にひれ伏して感謝したのです。戻って来たこの人は、自分の皮膚病が治ったのは、自分が清くされたのは、イエス様の力によるものだと気づいたのです。イエス様にひれ伏して感謝する。この感謝するサマリア人の姿は、信仰者としての理想を表しているように私は感じます。日頃神様から与えられている様々な恵みがあります。食事、健康、仲間、礼拝。それらを神様に感謝して受け取る。当たり前のこととして通り過ぎるのではなく、きちんと神様からの贈り物として受け取る。ルーテル教会で行われる祈りは、人間の行いの結果ではなく、神様が与えて下さる恵みに感謝する気持ちを起こさせるものだと、私は思っています。しかし、神様に向けられる感謝の気持ちが純粋なものなのか、問われている気がしてしまうのです。
 イエス様のところに戻ってきたサマリア人は、よく読むと、足元にひれ伏して感謝した、と書かれています。イエス様と向き合っているようで、そうでもなさそうです。単にありがとうを伝えるという状況ではない。しかも、大声で神を賛美しながら戻ってきているのだから、相当心を動かされている。この感謝するサマリア人は、純粋な感謝と、それとは違う気持ちが複雑に混ざっているような様子です。
 聖書は神様の愛を伝えます。神の子であるイエス・キリストが、十字架で苦しんで死に、復活した。それによって、私たちの罪が赦された。罪を犯さざるを得ないのに、神様が赦してくれる。愛される資格がないのに、神様が愛してくれる。簡単に言っているようだけれど、いつもそのように確信しているわけではないのだと思います。神様がありのままの自分を受け止めてくれた、生きていて本当に良かった、これが私の救いなのだ、と確信する時があります。しかし、ふとした時に、なぜ自分が?という問いが湧いてくることがあります。私は欠点だらけの人間。そんな自分は裁かれているのでは?愛されていないのでは?そう思い悩まざるを得ません。神様に感謝する気持ちは本心であると思っている。けれど、神様の大きな恵みを自分は受け取るに値しないと思う気持ちも混ざっているのだと思います。神様頼むから、取るに足らない私のことをもう見ないでほしい。私たちが神様に相対するとき、私たちがすることは、このサマリア人のように、ひれ伏すことだけなのです。
 今日の福音書の話はまだ終わりません。イエス様は、足元にひれ伏しているサマリア人に言います。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」イエス様の元へ導かれたサマリア人に、イエス様はここで救いを宣言します。皮膚病が治ったときでなく、神様に感謝したときでもない。ひれ伏すしかなかった身も心も、イエス様に「立ち上がって、行きなさい」、と言われたこの瞬間に、救いが宣言されたのです。清いとは言えない人間を、そのありのままの姿でいい、とイエス様は宣言してくれる。イエス様を信じる信仰が、イエス様と共に歩む旅路へと押し出してくれる。これが聖書の言う救いなのです。
 イエス様は罪を抱えてそれに苦しむ私たちを見捨てはしません。10人の重い皮膚病を患っている人々、神に見捨てられたと思われている人々と共に、その人生を生きた方です。苦しみの極みである十字架への道を歩まれた方です。イエス様は、苦しむ人たちを立ち上がらせ、その人が元いた場所へと送り出します。罪にまみれている私たちを、私たちのそのまま姿のままで救おうとされます。病気が治るというよりも、私たちの本来の姿、神様の心に適うことができないという限界を否定せずに、救おうとされるのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」神様がする救いをそのまま素直に受け入れられないかもしれません。時には、罪の現実の内に迷い、自分が受けた救いから神様を遠ざけてしまうかもしれません。聖書は言います。神様は私たちを招いているのだ、と。人間の知恵や力ではなく、神様の愛の内に生きる道がある。本当の救いの道があることに気づいてほしいと、神様は願っています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、私たちの思いと心を守ってくださるように。アーメン。

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